ぱぐの好きなうた(9) 2003.9.18


恋と言へば世の常のとや思ふらん今朝の心はたぐひにだになし
世の常のことともさらに思ほえずはじめてものを思ふあしたは
『和泉式部日記』より
先日七回目の結婚記念日を迎えたところなので、今回は後朝<きぬぎぬ>の歌のやりとりを選んでみました。伊勢物語や源氏物語にもいろいろあるのでしょうが、わたしが一番好きなのはこのやりとりなので……

まずは平安朝貴族の恋のお作法から。これを知らないとなぜ、こういうやりとりがあるのかわかりませんので。女は親の家に住むのが原則です。男はそこに通って来るというのが基本。親が死んでしまうと後ろ盾がなくなって落ちぶれてしまうお姫様もいたわけです。源氏物語だと作者に思いっきりひどく描かれている末摘花なんかがそうですね(わたしはあの場面を高校の時に習って、紫式部ってすごくいやな女だなと思ったのを今でも覚えてます。余談ですけど)。

男は複数の女のところに通うのがふつうで、ですから蜻蛉日記の作者のように嫉妬心が強くて「三十日三十夜<みそかみそよ>はわがもとに」と願う女も多かったはずです。

まず男が目当ての女のところに歌を贈り、女はそれに対して返事をする。直接ナンパめいたことは言わずほのめかすのが教養というもので、返事もほのめかしがかっこいい。OKが出たら男は女のところに通うわけですが、夜が明ける前に帰るのがお作法です。「きぬぎぬ」というのは「衣衣」、すなわちそれぞれ衣をつけて別れることを言い、「後の朝」という字を当てたりもします。
男の方は朝になってから女のところに使いを出し歌を贈ります。これは女も返事をする。

前置きが長くなりましたが、上のやりとりがどんな背景で詠まれたものかおわかりいただけたでしょうか?

【恋と言へば世の常のとや思ふらん今朝の心はたぐひにだになし】
これは男の歌。敦道親王(冷泉天皇の第四皇子・帥宮<そちのみや>)が、亡き同母兄・為尊親王(同じく冷泉天皇の第三皇子、弾正宮<だんじょうのみや>)の恋人だった和泉式部にお見舞いをしたことから始まった恋。最初はためらいがあったものがこのような歌を贈るまでに至る。年下の男の「遂に…!」という気持ちがあらわれています。

【世の常のことともさらに思ほえずはじめてものを思ふあしたは】
和泉式部は男の歌を受け、「世の常の」をそのまま使い、「今朝」に対して「あした」を使っている。恋多き女として名を知られていた和泉式部ですが、相手に合わせることができる、竹西寛子の言う「三代の女房、典型的な女房」の社交性がこの歌にはあらわれていると思います。この返歌を見て敦道親王はさらに惚れ直したかもしれない(笑)。

もっともこのあとの『和泉式部日記』の地の文では、
「とお返事はしたものの、意外な展開になってしまった。亡き宮もこんなことをおっしゃっていたのに……」
という女の嘆きが綴られているのですが。

為尊親王はプレイボーイ、敦道親王は漢詩文が好きな神経質なタイプだったようですが、いずれにしても政治的になにか活躍できるような余地は彼らにはなく、お育ちのいい美少年美青年であったために、恋に遊ぶのが楽しみというところはあったでしょう。『和泉式部日記』は、敦道親王との最初の出逢いから遂に親王の自宅に引き取られるような形になり(正式な結婚ではなかったらしい)、親王の北の方はショックを受けて里帰りしてしまうというところまでが描かれています。
残念ながら敦道親王は夜歩きが過ぎて若くして病に倒れ亡くなってしまい、式部は彼を偲ぶ歌をたくさん作っています。「帥宮挽歌群」と言われていて、「すて果てんと思ふさへこそ悲しけれ君に馴れにしわが身と思へば」はこのときの一首。

最後に余談ですけど、岩波文庫の『和泉式部日記』を校訂した清水文雄は、学習院の先生をしていたことがあって、三島由紀夫の恩師なのだそうですね。三島由紀夫はあんまり好きじゃないんだけど、へぇと思ったのでひとこと。
参考文献:
竹西寛子『王朝文学とつき合う』(ちくま文庫、1994)
清水文雄・校注『和泉式部日記』(岩波文庫、1981改版)
野村精一・校注/新潮日本古典集成『和泉式部日記 和泉式部集』(新潮社、1981)
中田祝夫・和田利政・北原保雄/編『古語大辞典』(小学館、1983)
山中裕『和泉式部』人物叢書(吉川弘文館、1984)

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