昨年(1999年)の話になりますが、神奈川県横浜市歴史博物館で催された「幻の宮 伊勢斎宮―王朝の祈りと皇女たち―」の観覧記です。Asahi-netパソコン通信の「こてこての古典文学べや」に書いたものに加筆してあります。 |
<展覧会について>
名 称 | 「幻の宮 伊勢斎宮―王朝の祈りと皇女たち―」 |
会 期 | 1999年3月27日(土)〜5月5日(水) 月曜及び4月30日(金)は休館、ただし5月3日(月)は開館。 |
時 間 | 9:00〜17:00。入館は16:30まで。 |
会 場 | 神奈川県横浜市歴史博物館 (横浜市営地下鉄「センター北」駅下車、徒歩5分) 電話:045−912−7777 |
内 容 | 史跡斎宮跡の発掘調査紹介、平安時代の物語に描かれた斎王・斎宮、有名な斎王の個人史、斎宮の制度など、さまざまな面から斎宮を紹介したもの。 展示品は三重県立斎宮歴史博物館にあるものが中心だが、そのほかにも全国にある関連資料を集めたらしく、なかなか目にすることのできない貴重な展示だったと思われる。 |
巡回展 | なお、同じ内容で巡回展があった。その日程は下記の通り。 *5月13日〜6月6日 高松市歴史資料館 *6月12日〜7月18日 福岡市博物館 *7月24日〜8月29日 大阪市立博物館 |
<朝日カルチャーセンター・横浜の公開講座のレポート>
横浜市立歴史博物館での「伊勢斎宮展」に併せ、朝日カルチャーセンター・横浜で公開講座「伊勢斎宮―秘められた皇女の謎を探る―」が開かれた。以下はその参加レポート。 講座は、全3回。 (1)3月30日(火) 斎宮の歴史 (2)4月 6日(火) 斎宮をめぐる文学―『源氏物語』を中心にして (3)4月30日(火) <事前講義>斎王の日々―伊勢に咲いた皇女たちの四季 <展示見学>「伊勢斎宮―王朝の祈りと皇女たち」 講師は、(1)(2)が元東京大学史料編纂所教授・山中裕(ゆたか)氏、(3)が三重県立斎宮歴史博物館学芸グループ学芸員・岸田早苗氏。 公開講座(1) 資料として配られたプリントは、次の4種類。 *延喜式(えんぎしき)の斎宮に関する部分 *群行の模型とそれに使われる神輿の写真 *群行の経路 *『伊勢物語』『大鏡』の斎宮に関する部分 延喜式というのは、延喜の時代(醍醐天皇の治世)に定められた法典で、巻五「神祇(じんぎ)」に斎宮に関する細かい規定が載っている。 このほか、源高明(みなもとのたかあきら)の『西宮記(せいきゅうき)』、大江匡房(おおえのまさふさ)の『江家次第(ごうけしだい)』、藤原資房の日記『春記(しゅんき)』にも斎宮のことが出てくるそうだ。 また、藤原実資(さねすけ)の日記『小右記(しょうゆうき)』には、一条天皇の斎宮であった恭子女王(たかこにょおう)に関する記録が詳しく載っているということであった。 斎宮というのは、天皇に代わって伊勢神宮に奉仕する未婚の皇女(天皇に該当する内親王がいない場合は近親の女王=にょおう)のことだが、儀式としては「初斎院(しょさいいん)」「野宮(ののみや)」「群行」が主要なものである。 初斎院というのは、宮城内の定められた場所で約1年間潔斎すること。 そのあと、宮城外に設けられた野宮(ののみや)で更に約1年間潔斎する。 このあと太極殿で天皇に別れを告げる。別れの印として、天皇自らツゲの櫛を斎宮の髪に挿し、「職務が済むまで決して都の方を振り向くな」 という意味の言葉(「京の方に趣き給ふな」)を与える。このときに天皇・斎宮とも振り向いてはならないことになっているのだが、三条天皇は振り向いたので不運を招いてしまったというエピソードがある。この儀式は「別れの御櫛(わかれのおくし)」と呼ばれ、斎宮を伊勢に送る一連の儀式のクライマックスである。 群行とは、監送使(かんぞうし、別名:長奉送使=ちょうぶそうし)以下、数百人の役人を引き連れて伊勢に行くことをいう。伊勢までは距離があるので、頓宮(とんぐう)といって途中で泊まる場所が定められていた。 なお、天皇の交代時、または斎宮の父母の死去、本人の過失などによって交代となるが、吉事による場合は往路と同じ道を通り、凶事による場合は違う道を通ることになっていた。 資料のうち、『伊勢物語』は有名な「狩の段」と呼ばれている69段(在原業平と斎宮の密通?が描かれている)、『大鏡』は先ほどの三条天皇に関する記述のところだった。 公開講座(2) この日のテーマは「斎宮をめぐる文学―『源氏物語』を中心にして」。 資料として配られたのは、次の通り。 *大江匡房が書いた有職故実(ゆうそくこじつ=儀式次第)書の『江家次第』 *南北朝時代の和学者、四辻善成(よつつじのよしなり)が書いた『源氏物語』の注釈書『河海抄(かかいしょう)』の一部 *「伊勢斎宮展」パンフレットより、斎王一覧表、関係系図。 *『伊勢物語』『栄花物語』『源氏物語』の関係部分 『江家次第』には、群行に行く前に天皇が斎王の髪にツゲの櫛を挿す儀式(別れの御櫛)について詳しく書かれている。(1)に書いた延喜式には、この部分はない。延喜式が定められたころには、まだ儀式として決まっていなかったということか。 また、在原業平には師尚(もろひさ)という男子があって、高階(たかしな)氏に入っているのだが、『江家次第』によると、師尚は『伊勢物語』第69段に書かれた業平と斎宮・恬子内親王(やすこないしんのう、文徳天皇第二皇女)の密通により生まれたことになっていて、その禁忌のため高階氏の子孫は伊勢神宮参詣ができない、と書かれている。 なお、高階氏の子孫には、一条天皇皇后定子の外祖父や、院政時代に院の近臣として活躍した者がおり、後白河院の寵妃であった丹後局(たんごのつぼね)・高階栄子もその一族。 『河海抄』は、のちに村上天皇の女御になった斎宮の徽子女王(のりこにょおう、「徽」は糸の上に横棒がある字)が、娘の規子内親王が同じく斎宮になったときに先例に反して伊勢に同行したことが、『源氏物語』で六条御息所や賢木(さかき)の巻の斎宮のモデルになったことを指摘している。 『伊勢物語』は69段とその後日談を記した70段、71段について。 『栄花物語』は、巻12「たまのむらぎく」。三条天皇皇女・当子内親王(まさこないしんのう)が斎宮の役目を終えて上京してから、藤原道雅<伊周(これちか=定子の兄)の子>と恋仲になったが、父帝の怒りに触れて悲恋に終わった箇所。小倉百人一首の第13番、 今はただ思ひ絶えなむとばかりをひとづてならでいふよしもがな は、このときの道雅の絶唱。当子内親王は出家して尼になり、23歳の若さで亡くなっている。 『源氏物語』は賢木の巻で、六条御息所が光源氏への想いを断ち切って娘の斎宮の伊勢行きに同行する場面。光源氏は出発直前の御息所を訪ね、複雑な想いを抱く。 紫式部はこの場面を書くに当たって、徽子女王の父・重明親王(=しげあきらしんのう、醍醐天皇皇子、村上天皇の異母兄)の日記『李部王記(りほうおうき)』を参考にしたらしい。 以上が講座の概要だが、1時間半の規定時間では時間が足らず、30分ほどオーバーした。講師の山中氏は、5回くらいかけてじっくりやりたかったと言っていた。 明治以後に刊行された『古事類苑(こじるいえん)』という百科事典には、斎宮の項目が300くらいあるという。わかっているだけで歴代64名の斎宮がいて、いろいろな書物に記録があるからそれだけのものになるのだろう。記録が残っていない斎宮もいるのだが。 なお、3月20日に事前講義と展示見学があったが、私は都合で参加せず、別の日にひとりで行った。そちらについては項を改めて書くことにする。 →観覧記 |
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