<展覧会レポート>
1999年4月29日に「幻の宮 伊勢斎宮―王朝の祈りと皇女たち―」に行った。 ふつう「斎宮」は「さいぐう」と読むのだが、斎宮跡がある三重県多気(たけ)郡明和町大字斎宮の地名は、「さいくう」と読むそうだ。最寄りの近鉄山田線の「斎宮」駅も同じ。 以下の記述では、人物を「斎王」、制度・建物その他を「斎宮」とする。 展覧会のねらいは次の通り。 |歴史学・考古学・国文学などのさまざまな視点から、斎宮の全盛期であった |8世紀〜10世紀頃の姿に迫ること (展覧会パンフレットより引用、以下同じ) 4部構成に別れていて、紹介しているものは次の通りだった。 |第1部「王朝の美」 『源氏物語』などの平安文学に見る斎宮のイメージ |第2部「斎宮とは何か」 文献資料から斎宮と斎王制度 |第3部「歴史に残る斎王たち」 『伊勢物語』や歌仙絵にみる斎王の横顔 |第4部「よみがえる幻の宮」 斎宮跡の調査成果と全盛期の斎宮を代表す | る考古資料 第1部では、源氏物語の絵巻類がいくつか出ていたが、江戸時代のものが主で斎宮に関係のない場面のものもあった。ほかに源氏物語をモチーフにした文箱や貝合(かいあわせ、蛤は元の2枚以外に合うものがないので、トランプの神経衰弱のようにして遊んだ)の貝など。王朝の雰囲気を知るためということらしい。 第2部では、文献資料としては次のようなものがあった。 *斎宮の儀式について記した 『延喜式(えんぎしき)』 『江家次第(ごうけしだい)』 『西宮記(さいきゅうき)』 ・後朱雀天皇のときの斎王、良子内親王(ながこないしんのう)の話がでてくる説話集 『古今著聞集 (ここんちょもんじゅう)』 ・斎宮の記事が載っている貴族の日記 『春記(しゅんき)(既出)』 『法性寺殿御記(ほっしょうじどのぎょき、摂政・関白藤原忠通=ただみちの日記)』 『中右記部類(ちゅうゆうきぶるい、藤原宗忠の日記を項目別に分類したもの)』 ・律令の追加法である「格(きゃく)」の集成 『類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)』(斎宮の官人の定員と位階を定めた勅を所収) ・歌合(うたあわせ、左右に分かれて和歌を合わせて優劣を競う遊技)の集成 『十巻本歌合』『類聚歌合』のうち、斎宮関係の歌合の部分 また、斎王を選ぶときには「卜定(ぼくじょう)」といって古来からの占いである「卜」が用いられるのだが、その具体的な方法がこれを観に行くまでわからないでいた。 占いには獣の骨を焼く「卜骨(ぼっこつ」と、亀の腹甲を焼く「卜甲(ぼっこう)」があり、斎王のときに用いられたのは「卜甲」。 あらかじめ斎王の候補者を選んでおき、国家の祭祀を司っていた神祇官(じんぎかん)の卜部(うらべ)が亀の腹甲を火であぶり、そのひび割れの入り方によって斎王としての適否を占ったという。神様に神意を伺うわけである。 伊勢に向かう群行の前に、天皇が斎王を送り出す儀式がある。「発遣の儀(はっけんのぎ)」といい、時期は卜定から3年目の9月上旬の深夜と決まっていた。宮中の大極殿(だいごくでん)で参入してきた斎王を呼び寄せ、天皇自ら斎宮の額に櫛を挿し、「京の方に趣き給ふな」と言う。 この「別れの御櫛」に使われた櫛の模造品があり、意外に小さく二寸(6cm)だった。 櫛は伊勢に向かう途中で休憩する頓宮ではずし、四寸(12cm)四方の漆塗りの箱に収めることになっていた。 群行は、斎王に仕える男女の官人のほか、京の境界まで見送る勅使、斎宮まで随行する長奉送史の一行など、総勢500人を超える大移動だったらしい。その行列について詳しく記した資料は残っていないが、賀茂神社に奉仕していた賀茂斎院の行列を元に再現した模型と配置図があった。斎王自身は葱華輦(そうかれん)という輿(こし)に乗るのだが、その模造もあった。 伊勢の斎宮には「斎宮寮」という役所があったのだが、現在までに発掘されているところでは、東西7列の四角に区切られた区画だったらしい。 伊勢神宮には20年ごとに社殿が建て替えられる式年遷宮(しきねんせんぐう)というものがあるが、斎宮でも同様のことがあったようで新たな斎宮の卜定のたびに新しい建物が建てられていたという。 なお、建物跡にはたくさんの掘立柱の柱穴があり、また宮殿などから出てくる瓦の出土がないことから、伊勢神宮の社殿と同様に礎石を持たない掘立柱建物であり、屋根は檜皮(ひわだ=ひのきのかわ)または板葺であったと考えられている。 斎宮の財政は、諸国から貢納される調や庸などの物納税品によって維持されていて、近江から常陸までの東海道・東山道の18カ国からさまざまな物資が調達されていた。たとえば、 |*伊勢、尾張、美濃など近隣の国からは、米・麦などの重いものや、筆・ | 紙・陶器・履物などの消耗品 |*海浜の国からは魚や海藻 |*内陸の国からは淡水魚や調味料になる植物 |*遠国の関東諸国からは軽い繊維製品など |*神宮領の(伊勢の国)多気・度会(わたらい)・飯野の3郡からは馬の | 餌の稲や藁など |*京からは鉄、薬、良質の織物などの貴重品 といった具合で、地域的な特色に応じたものになっていた。斎宮独自のものとしては、卜定に使われる亀甲があり、志摩国が納めていた。 斎宮の年中行事はいろいろなものがあるが主なものとしては、 * 6月 月次祭(つきなみさい) 伊勢神宮の重要な祭り * 9月 神嘗祭(かんなめさい) 伊勢神宮の収穫の祭り *12月 月次祭 6月に同じ の3つがあり、三節祭という。 伊勢神宮の内宮と外宮(げぐう)の間に離宮があり、斎王はここを起点にして内宮と外宮の祭祀に奉仕していた。途中にある河で禊ぎ(みそぎ、身を清めること)をする。 第3部では、『万葉集』に6首の歌を残した大来皇女(おおくのひめみこ)、『伊勢物語』に伝えられる在原業平との恋で有名な恬子内親王、斎王退下後、村上天皇の女御となり「斎宮女御」と呼ばれ三十六歌仙のひとりでもある徽子女王(のりこにょおう、「徽」は本当は「糸」の上に横棒あり)の3人が紹介されていた。 大来皇女は天武天皇の皇女で、実在が確認できる最初の斎王。おそらく、そのころ天皇家の様々な制度が整備されたものと思われる。 同母弟の大津皇子は謀反の容疑で死を賜ったのだが、その前に伊勢の姉のところに来たときに大来皇女が詠んだ歌が次の2首。 我が背子を大和へやるとさ夜ふけて暁(あかとき)露に我が立ち濡れし 二人行けど行き過ぎがたき秋山をいかにか君が一人越ゆらむ 大津皇子の死後、斎宮から退下(たいげ、神の前から退き下ること)し、都に戻ったときに詠んだのが次の2首。 かむ風の伊勢の国にもあらましを何し書きけむ君もあらなくに みまくほり我がする君もあらなくに何しか聞けむ馬疲るるに 大津皇子の遺体を二上山(ふたがみやま)に移葬したときに詠んだのが次の2首。 うつそみの人にある我や明日よりは 二上山(ふたかみやま)を色背(いろせ)と我見む いその上に生ふるあしびを手折らめと見すべき君がありといはなくに 恬子内親王は『古今和歌集』および『伊勢物語』に出てくる歌のエピソードで知られている。 古今和歌集 巻十三 恋歌三に次のような詞書(ことばがき)のついた歌がある。
『伊勢物語』はこれよりあとに成立したと言われているが、もっと話がふくらんでいる。上の詞書の「斎宮なりける人」というのは「斎宮にありける人」が転じたもので、斎宮自身とも斎宮に使える人ともとれるのだが、『伊勢物語』では斎宮自身のことになっている。 なおちょっと注釈を加えておくと、男女が一夜を共にしたあとは帰宅した男性の方から翌朝に歌を贈るのが礼儀。これを「後朝(きぬぎぬ)の歌」というのだが、この歌の場合、実際に共寝したかどうかはともかく、男が出さないうちに女の方から歌が贈られてきたのであり、かなり珍しいケースである。 最後は徽子女王。彼女は村上天皇との相聞歌を数多く残しているのだが、一番有名な歌は、娘の規子内親王が斎王になったときに野宮で行われた歌合で詠んだ、 琴の音(ね)に峯の松風通よふらしいづれのをよりしらべそめけむ である。 岩波文庫の『王朝秀歌選』(樋口芳麻呂・校注)は、その名の通り王朝時代の和歌のアンソロジーを集めた本だが、この中でふたつのアンソロジーにこの歌が選ばれている。『前十五番歌合(さきのじゅうごばんうたあわせ)』(藤原公任=ふじわらのきんとう)選)と『三十六人撰』(同じく藤原公任撰)である。桂離宮にこの歌から取った「松琴亭」という建物がある。 また、前にも書いたように娘に伴う母親の伊勢行きは前例のないことで、『源氏物語』の六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)のモデルになっている。 伊勢に向かう途上の鈴鹿山で母娘が唱和した歌は次の通り。 世にふればまたも越えけり鈴鹿山昔の今なるにやあるらん(徽子) 鈴鹿山しづのおだまきもろともにふるにはまさることなかりけり(規子) 第4部では、斎宮跡の航空写真と区割図、祭祀に使われた土器類などが展示されていた。珍しいものとしては、2,3cmくらいのミニチュアの瓶・壺などの土器類があり、これはもちろん実用ではなく、祭祀に用いられたものと思われる。 詳しく報告するために長くなりました。読んでくださった方に感謝します。 <参考文献> *「伊勢斎宮展」パンフレット *『日本古典文学大辞典』(岩波書店) *新潮日本古典集成『古今和歌集』 *岩波文庫『王朝秀歌選』 *とんぼの本『桂離宮』(新潮社) | |||||
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