(2)【吉野ヶ里遺跡・柳川編】2/6(土)晴れ
昨日のモツ鍋屋「楽天地本店」と屋台「ともちゃん」があるのは、天神。「ともちゃん」の近くには、「福岡市赤煉瓦文化館」がある。元はなんの建物か知らないが、あの界隈には珍しい赤煉瓦の建物。1階には喫茶もあるらしい。私はこういう建物が好きなので、門司(もじ)にもいつか行ってみたい。
さて、5日は中洲のど真ん中のビジネスホテルに泊まった。
9時にひまわりさんが車で迎えに来たが、ぐずぐずしていて待たせてしまった。前日食べすぎで朝食抜き。
すぐ、吉野ヶ里遺跡に向かう。ここは佐賀県だが、友だちの希望でつけ加えたのである。きのうも思ったが、案外山が多い。そういえばこの辺はむかしは炭坑が盛んなところだった。
吉野ヶ里のあたりは、神崎郡という(遺跡は、神埼郡神崎町、三田川町、東背振村の2町1村にまたがっている)。手元の資料では確認できないが、「神崎」はなにかで聞いたことのある地名だ。
吉野ヶ里遺跡に着く。ちょうど修学旅行の団体と一緒になった。言葉を聞いていてもどこだかわからなかったが、あとでバスの表示を確かめたら、我孫子に近い流山(ながれやま)高校の生徒たちだった。江戸川べりにあり、新撰組の隊長・近藤勇が刑死したのがここだ。ちなみに彼の出身は私が育った東京都調布市(当時は上石原村、現・調布市上石原)。
吉野ヶ里遺跡の維持保存の寄付になるというので、パンフレットを買う。それによると、工業団地にするための造成計画の途中で発見されたらしい。発掘は昭和61(1986)年から3年間。平成2(1990)年には国の史跡、同3(1991)年には特別史跡。
ここの大きな特徴は、全国でも有数の規模の弥生時代の環壕(かんごう)集落跡。すなわち朝鮮半島から伝わった稲作文化を行っていた「ムラ」が、「クニ」になっていった姿をたどることができるということである。奈良時代の官道(今の国道)とか役所の建物?らしきものも見つかっているという。
特別史跡に指定された分だけで約22ha、その他国営公園・県営公園として整備される部分を含めると約117haというからかなり広い。公園になる部分の工事が行われていた。TVなどで有名になった物見櫓は、かなりの高さがある。
展示室には発掘中の写真があったが、こういう仕事も面白いだろうな。高校時代の友だちで考古学をやりたいと言っていたひとを思い出した。来られなかった友のために、展示室で出張販売していた郵便局の出店で、切手と絵はがきを買う。長崎街道の切手も3枚続きで面白かったのでそれも。
続いて柳川へ。ふたたび福岡県へ戻る。途中で「鍋島」という地名を見かけたが、肥前藩主鍋島氏はここから名前を取ったのかな。日本は名字が多いのだそうだが、地名から取ればいくらでも多くなるよね。
そろそろおなかがすいてきた。柳川では「うなぎのせいろむし」を食べるのが楽しみである。「若松屋」といううなぎの専門店に入る。お重に盛ったご飯の上に蒲焼きにしたうなぎが乗っているのではなく、せいろにごはんと焼いてたれにつけたうなぎ、それにやや甘めの錦糸卵を載せて蒸したもの。たれがごはんにもしみこんで全体にいきわたり、ちょっとしつこいかな。蒸したせいろをお重に入れてあるから、熱い。錦糸卵は口直しという意味でもおいしかった。おつゆは当然肝吸い。それに漬け物。
続いて北原白秋の生家と記念館。白秋の生家は海産物問屋だったそうだ。旧家と言えるのかな。もっとも柳川に大火事があったときに焼けてしまってその後倒産し、東京にいた白秋のところに家族が上京したらしい。近所に「北原」という表札が多かった。
柳川には伝習館という立花藩時代の藩校がそのまま続いている高校が今もあるが、白秋が通ったころは伝習館中学。 藩校から今も続いている学校はいくつかあって、
*黒田藩の修猷館(しゅうゆうかん)=現・福岡県立修猷館高等学校
*福山藩の誠之館(せいしかん)= 現・広島県立福山誠之館高等学校
などがある(ざっと調べたら案外少なかった)。今は鹿児島大学になっている旧制第七高等学校は、薩摩藩の造士館が前身で、「七高造士館」と称した。
できたら白秋の歌集がほしかったのだが、記念館では童謡集とか詩集(『想ひ出』の復刊版)はあったが歌集はなし。ひまわりさんが係りのひとに聞いたが知らないと言った。歌人としては故郷でもそれほど知られていないということなのかな。
かくまでも黒くかなしき色やあるわが思ふひとの春のまなざし
『桐の花』(大正12年)
ここに来て梁塵秘抄読むときは金色光のさす心地する
『雲母集(きららしゅう)』(大正4年)
照る月の冷えさだかなるあかり戸に眼は凝らしつつ盲(し)ひていくなり
『黒檜(くろひ)』(昭和15年)
君かへす朝の敷石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ
『桐の花』
いそいそと広告燈もまはるなり春のみやこのあひびきの時
『桐の花』
こんなにいい歌がたくさんあるのに!(参考:大岡信『折々のうた』第三、第四、『新・折々のうた』4 岩波新書)。
あとで調べたら、短歌新聞社から上で取り上げた歌集が出ている。『桐の花』がほしいな。(その後、高野公彦編『北原白秋歌集』(岩波文庫)が出たので入手しました。2002.5.9追記)
白秋詩碑苑というのかな、神社の隣にある公園に行く。ここにはいろいろな木に、その木を詠み込んだ白秋の歌がぶら下げてあるのである。万葉植物園なんかと同じ趣向。私がみんなデジカメに収めていたら、トトロが公園の立札も撮らないのかと言った。
戻ってきて川下りの前に「川下りせんべい」を買う。乗っているときに食べるのを忘れたが、卵せんべい。おいしい。お店のおばさんが今度NHKの「小さな旅」に柳川が出るから見なさい、と言った。21日の夕方6時台だそうだ。今ちょうど撮影期間中で、川下りに乗って撮っているのを見かけた。1週間くらいかけて撮って、30分とか40分の番組に編集するらしい。帰ってから見るのを楽しみにしていたが、どうも地域ごとに放送しているらしく、関東の「小さな旅」を放送していた。
川下りの船に乗る。30分コースと70分コースがあるのだそうだが、70分は5人以上の貸し切りで高くなるのでやめた。冬は「こたつ船」になるのだが、この日はいい天気で暖かかったので、こたつにもぐり込まなくてもだいじょうぶなくらい。船頭さんは地元のひとで、前は海苔の養殖をやっていたという。柳川の市内は海に面していないが、ちょっと行けば有明海に出る。ここの海苔は次の日の朝食に一人1枚出たが、すごくおいしかった。さっき行った公園のそばには、農協と漁協が並んでいたし、魚屋では発泡スチロールに入れたいろんな魚を店先に並べていた。
柳川の旧藩主は立花氏だが、地元のひとは「お花」というらしい。われわれが今日泊まる宿は旧藩主の別邸だったところで、子孫が経営している料亭旅館「御花」である。花畠という地名からつけたらしい。小さな城下町で住民構成も江戸時代とあまり変わらなければ、人間関係も200年前とそれほど違わなかったりして。合わないひとにはつらいだろうな。
川下りのコースは旧柳河城址(藩の名前は柳「河」藩)を中心とした堀割を巡る。城があったあとに立っている中学は「柳城中学校」という。廃藩置県のときに、城の中にあったものをみんな運び出してから、城方が火をつけてしまったらしい。公式には「不審火」とされたようだが。「御花」に城が燃えているところを描いた絵があった。
堀割は要するに運河である。場所によっては底が船縁からはっきりわかるほど浅いところがあるが、旧藩時代に敵が入ってこられないようにしたのだということだった。
「御花」の敷地の脇もぐるっと回ったが、かなり広いので驚く。あとで聞いたら約7千坪だそうだから無理もない。「御花」のそばに簡保の保養センターもあるが、これもかなり大きい。最近は税金の無駄遣いのやり玉にあがったりしてるけど、安く泊まれるから人気があるだろう。
NHKとは別のところかな、また撮影隊とすれ違う。船こぎは小学生の男の子だった。流れがないとはいえ、けっこうむずかしいものなのだそうで、彼は好きで熱心に練習しているのだそうだ。
「御花」に行く。ひまわりさんとはここでいったんお別れ。門も大きいし、その正面西洋館もあったりして、なんだか気後れする。宿泊施設に向かう。ここは料亭だけあって、宴会もあるらしく、ちょうど結婚式に出席したひとたちがぞろぞろ出てきた。地元だとこういうところでやるのだろうか。ちなみに我孫子にも料亭が2軒ばかりあって、宴会とか結婚式ができるらしいけど、車で前を通ったことしかない。昔は手賀沼でうなぎとかいろんな魚が取れたから料亭ができたのだろうけど、今は24年連続日本一汚染度が高い湖沼という不名誉な記録を更新中である。
われわれの部屋は洋室のツインだった。松島に似せたという「松濤園(しょうとうえん)」という庭が眼の下に見える(4階だった)。トトロは見て歩くのは好かない方だが、それでも庭、史料室、西洋館を見に行った。
立花氏の先祖をたどると戦国大名の雄、大友氏の一族らしい。南北朝時代に筑前粕屋郡(今は「糟屋郡」と書く)立花城に住んだので、「立花氏」と称したとのこと。豊臣秀吉の九州征伐の際、当主宗茂はその配下に入り、柳川城主となった。関ヶ原の戦いでは豊臣方に属し所領没収。陸奥棚倉(白河の近く)に移されたが、その後柳川に戻り、以後は明治まで柳川藩が続いている。立花氏が棚倉に行ったあとは田中吉政という秀吉に仕えた武将が入ったが、子孫がなくて1代か2代で断絶。立花氏の系図があって、ご丁寧に今のひとも全部入っていたが、ここの経営者以外は外資系のメーカーに勤めているひとが多かったので、トトロが「面白いね」と言った。
城を明け渡す前に全部持ち出したと言うだけあって、展示品の数の多いのはさすがである。お雛様の展示もあった。3月になると「さがりもの」とか行って、天井からぶら下げる飾り物の展示が行われるらしい。
庭は花の季節ではないのでややさびしかったが、それでもパンジーなどが咲いていた。手入れが見事なのはさすが。松濤園の池には、鴨が何百羽もいた。真鴨よりもうすこし小さいのが多い。夕飯には出なかったが、冬は鴨料理があるらしい。この鴨を食べるのかな??
最近ここの経営者のひとが考えたというラーメンをおみやげに買う。なんでも立花藩の儒者だったひとが明(みん)から来た朱舜水(しゅしゅんすい)という儒者と交流があり、日本でも早くラーメンを食べたからだという。朱舜水は水戸光圀(みつくに、例のTVの黄門様のモデル)と交流があったことで知られるが、ラーメンの作り方も伝えたのかしらん。帰ってきてから食べた。つなぎがれんこんなので茶色。ぱっと見た目は日本そばみたい。高菜漬けの細かく切ったのがついている。だしは鶏がらだった。忠実に再現したというだけあって、今のラーメンとはぜんぜん違う。トトロはすごく楽しみにしていたが、「まずい」とがっかりしていた。まあ話の種にということね。ひまわりさんとひなつさんにもあげたのだけど、好みじゃなかったかも。
部屋にもお風呂があったが、大風呂があるというのでそっちに行く。男女別なので、先に私が行くことにしたら予定より遅くなって、トトロは夕飯前に入れなかったので機嫌が悪かった。髪の毛を洗っちゃったからね。最初ひとりだったのでのんびりしていたら、年輩のおばさんふたりが入ってきた。知り合いではないらしいけど、これから法事と結婚式に行くのだそうだ。夫の実家に行くと「嫁さんしなくちゃいけないから」今日は手足を伸ばすんだって。
夕飯は一部屋ずつお座敷。庭に面しているがライトアップはしないので、よく見えない。たぶん鴨が寝るからだろう。
そうそう、去年公開されたんだったかな、竹中直人が監督主演で中山美穂も出た「東京物語」という映画に、ここの旅館が出てくる。写真家のアラーキー(本名忘れた。さっきトトロに聞いたら「荒木又右衛門」と言った(^^!)の本が元になっている。映画だから当然かもしれないけど、柳川の町がとてもきれいに映っていてよかった。川下りの場面もあり。
旅館なので仲居さんが部屋の案内をしてくれたが、お座敷も同じひとだった。かなりのベテランだと思う。仲居といえば昔の職場の先輩が退職するとき、ある男性が
「○○さんなら旅館の仲居さんとかやりそう」
「そうね」
と笑っていたのを思い出す。
デジカメをお座敷に持っていくのを忘れたのは不覚だった。灰皿とかも立花氏の家紋入り。ちょっと面白い家紋だ。有明海の海産物が食べられるというのが名物だが、突き出しにあったこりこりしたものを、
「なんだと思います?」
と仲居さんが言う。ナマコとかいろいろあげたが、食べ終わったときに教えてくれたところではいそぎんちゃくだそうだ。名前を聞くと食べられなくなるひとがいるので、あとで言うのだそうだ。地元での呼び方があったと思うが忘れた。珍しいのは薄っぺらい緑色の細長い二枚貝。ゆでであるだけらしいが、中身は小さなあさりくらいの大きさ。
舌平目の仲間だというひらめの揚げ焼きはおいしかった。レモンをしぼってかける。トトロはきれいに食べたのであとでほめられた。なんたって海に近いところ(沼津など)で育ったからね。でもお行儀はよくない。
鴨料理はなかったが、その代わりに?牡蠣鍋が出た。これも有明海で取れるかな?土手鍋などではなく海鮮鍋のように野菜をいれて一緒にぐつぐつ煮るだけ。もみじおろしで食べる。
最後にうなぎのせいろむし。お昼に食べたのよりちょっと入れ物が大きいかな。料理法は変わらないと思うので甲乙つけがたし。トトロは「それならお昼はどじょうの柳川鍋にすればよかった」と言った。せいろむしのあとに出てきた柑橘類(このへんだとぽんかん?)がとてもおいしかった。しつこい味のあとにはこういうのがいい。
庭で猫の鳴き声がするので見に行くと、黒い猫が二匹、何かもらおうと思って待っているのである。われわれはやらなかったが、隣のお座敷では何かやっていたらしい。
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