散文の寄せ集め 「ただひとたびの」(2000.8.26掲載、執筆は2000)


「ただひとたびの」
一度だけ、よそのお宅の晩酌の時間に闖入したことがある。

たまたま母と一緒に親戚の家に行く用事があって、その帰りに近所の家におじゃましたのである。そのWさんとは法事では顔を合わせたことがあった。
ちょっとあいさつだけして帰るつもりでいたら、Wさんと奥さんが、
「ちょうどこれから夕飯だから一緒にどうですか」
と言った。しまった、へんな時間にひとの家を訪ねた、と思い、母と顔を見合わせて躊躇した。
しかし、ふたりともどうぞどうぞと勧めてくれるので、そのまま上がることにした。

Wさんの晩酌は恒例のことらしく、酒は日本酒だった。ひとつが青森の田酒(でんしゅ)。もうひとつは浦霞(うらがすみ、宮城県塩竃市)だったかなあ。どちらも
いい酒(なのだそうだ)。燗はつけず、冷や。
奥さんも私の母も呑まないから、その日の晩酌はWさんと私のふたりだった。

Wさんの座持ちのよさは、法事で体験済みだったから楽しい酒になった。
見たことのない赤っぽい小さな干物が出てきた。
「トバ」という鮭の干物だという。Wさんはある製紙会社に長いこと勤めていたのだが、北海道の工場に勤務していたときに知ったそうだ。気に入ったものをわざわざ北海道から取り寄せているという。
もともとはアイヌのひとたちの保存食だったらしい。

製紙工場の話をいろいろ聞く。日本は紙の原料を輸入に頼っているのだが、東南アジアなどの森の木をぼんぼん切ったことで現地の森がなくなってしまい、洪水になったりとかいろいろ自然災害の元凶らしい。最近はそういうことへの反省から、現地で植林を行っているという。その植え方の話がおもしろかったのだが、残念ながら正確なところが思い出せない。

ほかに、日本酒の好きなひとたちの集まりがあるという話も聞いた。銀座で定期的に集まるのだそうで、若い女性も多くておもしろいという。
Wさんは定年退職して数年経っていたと思うのだが、楽しみは酒を呑むことと、近所を散歩することだと言った。

親の知り合いに、亭主が酒を呑むといって奥さんがいつも怒っているうちがあったり、私の父も休みの日は大酒呑んで母に多すぎると怒られているのを見ていたから、家庭で呑む酒があんなに楽しいものとは知らなかった。

Wさんの奥さんはたしなまないが、Wさんがときどき奥さんに北海道での話を確認をしたりして、引き込んでいる。そのタイミングのよさが実にみごとだった。


あれから半年して私は結婚した。1996年の9月である。
その後Wさんにお逢いする機会はないのだけれど、今晩も奥さんを相手に晩酌しているのだろうか。
                  
(2000.7.31記)


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