2014/1/22 水曜日

2014.1.11「神谷美恵子生誕100年 記念の集い」@岡山市民文化会館(5)

最初に長島愛生園園長・藤田邦雄氏から挨拶があったのだが、わたしは開演時間を過ぎてから会場に着いたので、詳細はわからず。
神谷美恵子と長島愛生園の関わりについて話したものと思われる。

なお、今回の集いの主催者は長島愛生園と長濤会。
共催が長島愛生園入所者自治会、長島愛生園歴史館、笹川記念保健協力財団、岡山県、岡山市、瀬戸内市。
後援がふれあい福祉協会、岡山県教育委員会、岡山市教育委員会、瀬戸内市教育委員会、岡山県医師会、岡山県看護協会、ハンセンボランティア「ゆいの会」。
協力が山陽女子高等学校(たぶん司会を務めた女性二人。放送部ではないかと思う)。

14:00~15:00 講演「人生の生き方の選択」
聖路加国際メディカルセンター理事長・笹川記念保険協力財団名誉会長 日野原重明

昨年10月4日に102歳になったとのこと。神谷美恵子が生誕100年(亡くなったのは65歳)なので、さらに年上で健在と言うことになる(!)。
杖も突かずにすたすた出てきて一時間立ったまま、パワーポイントを使って講演をしたので聴衆が度肝を抜かれていました(笑)。
パワーポイントの操作は誰かにやってもらったし、背中が曲がっているのは年齢的にやむを得ないでしょうが、これが(噂の日野原先生か!)と思いました。

実は日野原さんは昨年6月東京都東村山市にあるハンセン病療養所全生園内の国立ハンセン病資料館でも講演しています。ハンセン病資料館開館20周年記念です。わたしはそれをやったのをつい最近知って愕然としたのですが、その時のお題は「ハンセン病の患者に生涯を捧げた神谷美恵子医師の生き方」です。今回の講演はそれに重なる部分が多いのではないかと思います。

日野原さんが現在名誉会長を務める笹川記念保険協力財団はハンセン病の撲滅と病気について一般市民に広く理解してもらう取り組みをしています。
同時代の同じ医師であるけれども、神谷美恵子に直接逢ったことは一度もない。
ただ、神谷美恵子が訳した本の影響は受けた。

GHQが聖路加病院を接収した時、米軍の野戦病院として使われたが、聖路加の人は中に入ることを許されなかった。メディカルライブラリーのパスが欲しいと申し出たら、午後だけ通ってもいいということになった。ウィリアム・オスラー(ぱぐ注:1849年- 1919年、カナダの臨床医師、内科医)の本の中に「医師が読むべき10冊の本」、というのがあり、その中にマルクス・アウレリウス『自省録』があった。(ぱぐ注:マルクス・アウレリウスはローマ帝国の皇帝。五賢帝の一人。若いころ哲学を学んだので哲人皇帝といわれる。『自省録』は多忙な公的生活の中で自分を振り返って書き残したもの)
読みたいと思っていた時に、神谷さんが翻訳を出したので、さっそく読み大きな影響を受けた(ぱぐ注:今は岩波文庫に神谷美恵子訳が入っています)。

同時代人なので、自分と神谷美恵子の履歴を振り返る(パワーポイントで両者の経歴事績を表にして示す)。
日野原氏は山口県山口市出身の長州人。七歳で神戸の小学校に入学→腎臓病で休学→関西学院中学校入学→京都の第三高等学校、通称三高入学(ぱぐ注:岡山には第六高等学校、通称六高があった。漱石の弟子の一人で作家の内田百閒は岡山市出身で六高を出ている。大学時代はドイツ語ドイツ文学専攻)→京都帝国大学医学部に学ぶ。在学中に結核にかかって広島で療養(ぱぐ注:お父さんが広島女学院の院長だった。両親共にクリスチャン。お父さんはメソジスト派の牧師。日野原氏もクリスチャン)。

影響を受けたウィリアム・オスラーの本は、後に仁木久恵さんさんと共に翻訳をした→『平静の心―オスラー博士講演集』(医学書院)。

2014.1.11「神谷美恵子生誕100年 記念の集い」@岡山市民会館(4)

集いの概要について(敬称略)。

13:20 会場、14:00開演 場所は岡山県岡山市の岡山市民会館大ホール。
一般で応募当選したのが1500名(同行者二名まで)、他に招待者もあった。1600名くらい集まったらしい。

14:00~15:00 講演「人生の生き方の選択」
聖路加国際メディカルセンター理事長・笹川記念保険協力財団名誉会長 日野原重明
(ぱぐ注:日野原氏は内科医。循環器、つまり心臓・血管などが専門)

15:00~15:40 鼎談(ぱぐ注:ていだん。三人で話をすること)「神谷美恵子を語る~医師として、母として~」
順天堂大学教授 樋野興夫(ひの・おきお)、長島愛生園入所者 石田雅男、神谷美恵子次男・リコーダー奏者 神谷徹

15分の休憩を挟んで
15:55~16:40 コンサート「バロック音楽のひととき」
演奏:テレマン・アンサンブル 指揮:延原武春 独奏:神谷徹/リコーダー 出口かよ子/フルート・リコーダー 浅井咲乃/ヴァイオリン

2014/1/15 水曜日

2014.1.11「神谷美恵子生誕100年 記念の集い」@岡山市民会館(3)

Filed under: 神谷美恵子,読書,日記,旅行,散文・文章 — ぱぐ @ 21:40:02

すみません、なんと3回目の前置きです。

アメリカ留学中もいろいろ迷いがあって時間が掛かっていますが、医学に転校することを決め(父前田多門の許可を得るまで時間が掛かった)、アメリカで少し医学を学んだあと、太平洋戦争前に帰国し、東京女子医学専門学校(現在の東京女子医科大学)に編入、日本の医師の資格を得ます。

ハンセン病のために働きたい、という希望があり在学中の昭和18=1943年に岡山県にある長島愛生園というハンセン病療養所に見学に行っています。
ただ家族の反対などもあり、専攻を精神医学にすることに決め、東京帝国大学医学部の精神医学教室に入りました。当時は戦争末期で男性医師は出征している者が多く、医師の数が足りず空襲もあったりしてたいへんだったそうです。

戦後は父前田多門が文部科学大臣に任命されたので、当時の駐留軍GHQ(アメリカ軍)との交渉のために語学の手伝いをしています。六三三制などがこのときできています。前田多門辞任後も次の大臣、安倍能成(哲学者、夏目漱石の弟子の一人)に請われて引き続き文部科学省勤務。

そのあと生物学者の神谷宣郎(かみや・のぶろう、1913-1999)と結婚、当時宣郎氏は東京大学の講師でしたが後に大阪大学理学部の教授になったので、美恵子も一緒に関西住まいとなる。

まだ紆余曲折がありますが、長島愛生園に勤務することができるようになったのは昭和32=1957年、43歳の時です。まず非常勤職員として週末を中心に神戸市の自宅から5時間余り電車と船を乗り継いでの勤務でした。
精神科の医師として治療を行いながら面接やアンケートで調査を実施。このとき、まだハンセン病療養所では国の政策として「絶対隔離」が行われていたので、家族や郷里と切り離されてここに入った人が多い。年少のころの入所だと、その当時はよくわからなくてあとでなってから事情を知るという人もいたはずです。

美恵子自身も若いころに自分が将来どうしたらいいのか、という悩みを抱えていたこともあって「生きることの意味、生きがい」を探していたところがあったのですが、患者さんたちの話を聞いているうちに「生きがい」についてさらに深く考えるようになりました。これは後に『生きがいについて』(みすず書房、1966)という著書にまとめられます。
美恵子は西洋哲学の影響をかなり受けたので、そちらの考え方が強くなかなか手強い本ですが、興味のある方はどうぞ。

さてそろそろ「記念の集い」のレポートに入ります。おいおい注釈を挟みますので、神谷美恵子の経歴よりも考え方、何をしようとしていたか、ということにご注目ください。

2014.1.11「神谷美恵子生誕100年 記念の集い」@岡山市民会館(2)

Filed under: 神谷美恵子,読書,日記,旅行,散文・文章 — ぱぐ @ 21:38:48

前置きが長くてすみません。
まだ神谷美恵子(当時は前田美恵子、以下美恵子と書きます。敬称略)がハンセン病に初めて出逢ったところの話でした。十九歳の時です。
(1)の記事のハンセン病に関する社会的政治的な変動については、このあともずっと関係しますので頭に入れて置いてください。

若いころに大きなショックを受けるとその反動といったようなことが起こるのは誰しもあることだと思うのですが、美恵子はここでこの人たちのために働くことはできないか、と考え始めます。「病気」ではなく「病気になった人たち」のために、というところが大事なポイントです。

その後、自身が結核にかかっていったん治癒したものの(結核もまだ有効な治療薬が発見されていなく、静かな空気のきれいなところで過ごすのが当時の療養スタイル)、また再発するということがありました。ハンセン病と結核はすぐに死亡につながりにくい、というところに共通点があります。病んでいることが自分でよくわかり、ゆっくりと死に向かっていく、というのが現在の死因第一位のがんと違うところだと思います。

結核の治癒が認められたのが23歳。当時だと女性は結婚年齢が早めですからやや過ぎています。当時の家事は電化製品がないころで手作業が多い。疲れるのはまた再発のおそれもあるので主治医からは5年間は結婚するのはむずかしいい、という忠告を受けています。
津田塾では将来を嘱望されていてアメリカ留学を勧められた(創設者津田梅子1864-1929は7歳で最初の女子留学生の一人として渡米。帰国後華族女学校で教えるが再度留学後、津田塾を開いた)。

経歴だけ追っていっても神谷美恵子自身を知ることにはならないと思うので、人となりをわたしなりにまとめながら書いていますが、改めてむずかしいなあと思います。
もう一回、前置きを挟みます。よろしくおつきあいください。

2014/1/14 火曜日

2014.1.11「神谷美恵子生誕100年 記念の集い」@岡山市民会館(1)

Filed under: 神谷美恵子,読書,日記,旅行,散文・文章 — ぱぐ @ 20:30:27

昨年12月30日の記事にも書いたけれど、上記の集いに行ってきた。

神谷美恵子って何者?と思う人が多いと思うので、簡単に生涯を紹介しておく。
かなり複雑な経歴なので簡単にならないかもしれませんが(^^;)。
年齢について詳しく書いているのは、成長段階で受けた影響を考慮するためです。頭に入れながらお読みください。
確認しながら書いていますが、間違いがあったらわたしの責任です。

【神谷美恵子】(かみや・みえこ 大正3=1914-昭和54=1979)
昭和54=1914年1月12日、内務官僚の父前田多門(まえだ・たもん、1884-1962)と母房子(旧姓金沢、1895-1955)の間の第二子として岡山市に生まれる。
内務官僚というのは今の内閣府・警察などを含むかなり幅の広い仕事を日本国内全部で扱うので、転勤が多い。また前田多門は有能な人で単なる役人以外の仕事も多くこなしている。この辺、美恵子への影響多し。
兄・陽一(のちフランス文学者、パスカルの「パンセ」を研究)とは三歳違い、二男三女の長女。順番は兄→美恵子→二女→三女→次男。
父の転勤が多く、それによって引っ越し・転校が多い。

九歳の時、父が国際労働機関(ILO)の日本政府代表としてスイス・ジュネーブに赴任するのに従い、一家で移り住む。
美恵子はジャン・ジャック・ルソー教育研究所の附属小学校に編入。少人数でいろいろな国の年齢もいろいろな子どもたちと共に学ぶ。
日本ではのびのびした公立の小学校から厳格なカソリックの小学校(聖心学院)に親の意向で転校したため、なじめなかった。
スイスの学校に大いになじみ、フランス語で考えるのがいちばん楽になったという。

十一歳の時、各国代表の子弟のために設立されたジュネーブ国際学校中等部に入学。
地理学が専攻で年配になってから年少者に教える楽しみのために赴任したフランス人のデュプイ先生の影響を受ける。

十二歳で父の仕事のため帰国。
帰国子女であり、言葉の問題もあって、帰国後に入学した私立学校(自由学園)では登校拒否を起こす(頑固な一面があることに注目)。
別の私立学校の女学校(成城高等女学校)に編入、こちらでは独学が奨励されたので合っていたという。
十二三歳ごろから「書くこと」に関心を持ち始める。

その後津田塾に学ぶが英語英文学にはそれほど関心がなかったという。
兄と共に放課後アテネ・フランセに通い、フランス語の勉強を続ける。
スイスにいたことで欧米語の語感が身に付いたためだろう、フランス語・英語・ドイツ語がかなりでき、後に古典ギリシャ語も独学で身につけている。

女学校にいたころから津田塾在学中に掛けて個人的な悩みがあり、自分の行く末に迷いがあった(この辺、どのくらいふれていいのかわかりませんが、大事なところだと思うので書いておきます)。
近しい人を亡くし大きなショックを受けたところで無教会主義キリスト教(内村鑑三などが中心となったキリスト教の信者の集まり。教会で神父<カソリック>や牧師<プロテスタント>の話を聞くのではなく、聖書を読むことで信仰を深めようとする)伝道師だった叔父(母の末弟)に頼まれてハンセン病療養所多摩全生園(現在の国立療養所多摩全生園、東京都東村山市)にオルガン弾きに付いて行く。十九歳の時、1933(昭和八)年。

ハンセン病は現在は薬で治る病気だが、当時はまだ薬が開発されていなかった。感染力は弱い。早期に適切な治療が受けられないと後遺症が残ってしまう。回復した人から感染することはない。

日本の場合は明治以降、近代化政策の中でハンセン病患者について強制隔離政策が長く採られ、昭和20年代以降、特効薬によって完治するようになってもそのまま隔離政策が採られ続けた。
1907(明治40)年に制定された「らい予防法」が廃止されたのは1996(平成8)年のことである。
国家賠償請求の裁判で原告が勝訴し「ハンセン病問題の早期かつ全面的解決に向けての内閣総理大臣談話」が発表されたのが2001(平成13)年。小泉純一郎首相。

神谷美恵子がどうハンセン病とその病気にかかった人たちと向き合ったか、というのは単なる病気の問題ではなく、政治や社会状況の変化といったことも考慮しなければならないのでむずかしい。

2014/1/5 日曜日

最近作った短歌を記録のため再録

明けましておめでとうございます。
各記事からのツイッターと、全部の記事にコメントが付けられるよう、家人が設定してくれましたので、よろしくお願いします。
コメントは承認制です。詳しくはこちら

歌会始の詠進歌(お題「静」)は1月15日以降にお披露目することとして、そのほかの歌を記録のために再録しておきます。

12月1日
やむごとなき名言ぼっとさん主催の第三回やむごとなき杯記念歌会に寄せて。
全体はこんな感じ→http://togetter.com/li/597586 (ツイッターやってなくても読めます)

しんがりは進むも引くも地獄なり歳三曰くお先に逝くぜ
 #やむごとなき03a

やられてもまた立ち上がる背中あり戦ふ君に惚れてまうやろ  #やむごとなき03b

拾ひてし光るものをば見てみれば飴玉ならぬ銀玉である。  #やむごとなき03c

12月12日
2013年の漢字「輪」で即興にて詠める
<輪投げする子等の姿を見ておればソチの来る日の待ち遠しさよ>

12月24日
繰り返し林檎を愛でるスダチかなまずは一杯すっきりすたすた(意味不明クリスマス折句)
*折句=物の名を、句のおのおの頭の字に一つずつ詠み入れたもの

すばしりの真裏に立ちてすすり泣く理屈は要らぬ釘付けの夜(意味不明裏返しクリスマス折句)
*クリスマスの裏返し=すますりく

隊長さん( @taicho_u )に贈るクリスマスプレゼント、ヤマハ発動機の五郎丸歩選手を詠める
<首かしげ蹴りに行く五郎丸なり一、二、三、とステップを踏む>

2013/12/30 月曜日

「神谷美恵子生誕100年 記念の集い」に向けて

こんばんは。年度末の夜をいかがお過ごしでしょうか。

わたしは新年早々1月11日に「神谷美恵子生誕100年 記念の集い」というのが岡山市で行われるのに参加できることになりました。
神谷さんが来年で生誕100年というのは気がつかなかったのですが、65歳でお亡くなりになったのが1979年10月12日、わたしが中学二年の時です。当時は神谷さんのことは何も知らず、卓球と読書に精を出していて、司馬遼太郎の『燃えよ剣』(新潮文庫)にはまったのがこの年ではないかと思います。

神谷さんのことを知ったのはたしか二十歳前後のことで、母が追悼特集の「みすず」を見せてくれたのだった思います。その時は、
(こういう、いい顔をした女の人ってどういう育ちをしたのかな)
と思ったのですが、その後数年の内に大枚はたいてみすず書房から出ていた著作集を全部買って、精神医学とかミッシェル・フーコーなどは全然ワケのわからないまま一応全部読んでみました(いまでもそっちの方は誰かにレクチャーしてもらわないと理解できません)。

その後、いろいろなことがありましたが、なんとかして自分が感じる神谷さんを文章としてまとめてみたい、という気持ちは著作集を読み始めたころから変わっていません。30年弱になるのかな(!)。
今度の岡山行きで、ひとつ何か感じてきたいと思っています。本を読んでるだけではわからないことが現地ではあるはずので。
そちらは、またこのブログに何か書きたいと思います。

休み休みの更新なので、こちらを続けて読んでださる方がいらっしゃるのかよくわかりませんが、みなさま、よいお年をお迎えください。

*コメントを受け付けない設定になっちゃってますが、できるようにあとで家人に直してもらいます。しばらくお待ちくださいませ。

2013/12/25 水曜日

敬虔な気持ちで迎えた誕生日

おはようございます。
きのうはクリスマスイブでしたが、どんな風にお過ごしになりましたか。

わたしは本来は1月生まれの筈だったのですが(予定日は確かめていない)、ちょっと出血があったとかいうことで母が早めに入院して12月25日にこの世に出てきております。母はなかなか麻酔から覚めず、時間が掛かったらしいです。

12月25日だと、クリスマスとセットになって全世界的にお祝いしてくれる感じだし(笑)、みんなに覚えてもらいやすい日なのでお得です。子どものころはクリスマスと誕生日がセットで、おばあちゃんち(母方の)でどどーんと大きなケーキでお祝いしてもらった記憶があります。

物心ついた時から本好きだったので、たいてい本をもらったんじゃないかなー。小学三年の時自転車に乗っていて交通事故に遭って家で療養した時もお見舞いは本が多かったですね。

日付が変わってからになりますけど、今晩は水野倫之NHK解説委員の時論公論(0:10~0:20)がありますので、それを誕生日プレゼントと思うことにします。
内容は深刻なものでずっと気になっていることですが、水野さんはずっとスタンスを変えていないしこれからも解説は聞いていきたいと思いますので。

追記2013.12.30:ツイッターの方ではこんな感じで祝っていただきました(ツイッターやってなくても読めます)。みなさんありがとうございます♪→http://togetter.com/li/607160

2013/12/1 日曜日

小林誠さん・益川敏英さんの講演会@多摩六都科学館(5)

Filed under: テレビ,美術館・博物館・アート,日記 — ぱぐ @ 22:34:05

講演は以上で終わり。
次に益川さんも加わってのパネルディスカッション。
司会は多摩六都科学館館長の高柳さん。(敬称略)

最初に高柳さんから講演者にいろいろ質問が投げかけられたあとで、聴衆からの質問(付箋に書いてホワイトボートに張り出したのを高柳さんが選んで読みました)。

質問1.息子が物理研究者になりたいと言っていますが、向いている素質はなんですか?
坂下:けっこうミーハーなこと。ノーベル受賞者に逢えるとわくわくすること。
中山:理論に対する検証は長い時間が掛かる。理論通りに装置ができていることに感動した。
小林:物理の研究にもいろいろあり、スタイルも違う。疑問に思ったことの元を知りたいと突き詰めていくのが好きな人が向いていると思う。
益川:小林さんと同じ。素朴に不思議だと思うことを自然から感じ取れること。自分の間違いがわかること、それはいろいろ考えることにつながる。

質問2.小林・益川理論を発表した時、将来必ず実証されると思っていましたか?
益川:論文はCP対称性の可能性についての可能性だった。某先生に「ほんとか?」と訊かれたので「仮定を示しています」と答えた。
小林:説明するための一つの仮定で、面白い仮定だと思っていた。3世代エビデンスはすぐ実証されたので、それからまわりの扱いが変わった。

質問3.同時に受賞した南部陽一郎さんの理論と小林・益川理論の関わりについて教えてください。
小林:だいぶ違う。南部氏のは適応範囲が広い仮説。益川・小林理論は狭いところの仮説。

質問4.ダークマターとニュートリノはどう違うのですか?
坂下:むずかしい質問ですね……
小林:圧力の性質がダークマターとニュートリノでは違う。

質問5.湯川秀樹さんは●●(聞き逃しました)の時、中間子理論を思いついたと言いますが、小林益川理論にはなにかそういうことがありましたか?
益川:湯川さんの伝記を書いた朝日新聞の記者から、違うと直接聞いたので、それは違う。 小林益川理論にはそういうエピソードは特になし。最初はヘンだと思ったことを翌日(同僚だった)小林氏に話したら同意してくれた。

質問6.素粒子部門で日本が進んでいる理由があれば訊いてみたい。
中山:●●さん(これも聞き逃し)の時代からの系譜が続いている。膨大な労力をこつこつ続けていること、みんなの力を合わせている。
高柳:いろんな国の人が集まってやる時に日本人は活躍していますか?
中山:います。
高柳:湯川・朝永・坂田と来て、いまの状況につながることは?
小林:伝統があるところに人が集まった。自分たちがやってきたことに対する自信。実験はCERNに比べて立ち後れたが、KEKでやっているのはノウハウの蓄積が大事。20年近くの蓄積の成果が出ている。
益川:湯川・朝永は少数なので説明が付きにくい。湯川さんはハプニングの部分もある。何年も論文を書かないので主任教授が催促した。それまでとは対象を少しずらして書いた論文がノーベル賞に結びついた。朝永さんはアイデアマンで湯川さんに対するライバル心があった。あの当時は個性に合った仕事をしている。坂田先生(ぱぐ注:小林さん・益川さんは名古屋大学で坂田昌一博士に師事)は、集団指導でいい弟子をたくさん育てた。集団的に研究する素地を作った。
坂下:伝統についてはよくわからないが、実験していて根気よく取り組むようにと先輩に言われる。日本ではいろんな実験ができる環境が現在整っている。
(ぱぐ注:最初の高柳館長の問いかけに対し、益川さんが持論の「稲作理論」を持ち出した。稲作は共同作業で行う仕事なので、そういう素地が日本文化に根付いているのではないか、ということ。NHKの番組でも話した由)

質問7.国際リニアライダーは何を狙っているのですか?
(ぱぐ注:KEKが建設中の次世代の直線衝突型加速器。全長30キロ超の長いトンネルの中に設置される)
坂下:きれいな実験、いま知っている理論を超えること。
益川:●●(聞き逃し)の拡張でもある。転換期なので、新しいものが出てくると思う。
小林:標準模型は究極のものではない。それ以上を求めようというのが素粒子理論学の目的。
中山:大きな研究施設ができて世界各国の人が来るということは、若い学者が柔軟なうちに参加できる。海外の若い人は成果を自分の国に持って帰れる。

質問8.いやになった時はどうしますか?
中山:いろんなテーマを同時にやっているので、違うことに取りかかる。
小林:考えていることの答えが見つからないのはよくあること。いくつか問題を抱えているので、方向を変える。
益川:こうやったらこうなったという成功例を積み上げる。脳天気なので失敗はない(会場から笑い声が起きる)。
坂下:違うことをしてみる。違う角度からやってみる。

以上でパネルディスカッションは終わり。

中継会場のためにみなさんが来てくれて一言ずつ挨拶。
(実はプラネタリウム会場は広いので、聴衆から話している人の表情は見えなかったとのこと。)
益川:ちびの益川です。母からの遺伝でおしゃべりです。
小林:益川さんと違ってしゃべらない小林です。
坂下:今日はこのお二人(ぱぐ注:益川さん、小林さんのこと)に逢えて興奮しています。
中山:会場では皆さんの顔が見えなかったんですが、こちらだとよく見えますね。
高柳:進行がうまくできたか心配しています。ミーハーが研究者を作るのではないかと思いました。またこういう機会を作りたいので、ご協力をお願いします。

多摩六都科学館のみなさん、準備と撤収お疲れさまでした。
懇親会に余りがあるのでどうですか、と言われたのですが残念ながらお断りしてしまった。

小林誠さん・益川敏英さんの講演会@多摩六都科学館(4)

Filed under: テレビ,日記 — ぱぐ @ 22:32:35

3人目の講演者は1978年生まれの坂下健氏(KEKニュートリノグループ助教)。

ニュートリノとは何か。
1930年パウリが予言、1934年フェルミによる研究が行われ、「ニュートリノ」と名付けられる。中性な(ニュートラル)小さい粒子(リノ)という意味。1956年ライネとカワンの実験により発見。
日常では見えないもの。
太陽からは、1秒間あたり約1兆個のニュートリノが人の手のひらに当たっている。
ニュートリノは物質とほとんど反応しないので、身近にわかりにくい。
太陽からのニュートリノが地球で反応する確率は0.00000002%、ほとんど通り抜ける。
電気的に中性な素粒子であるため、電気を通さない(電荷を持たない、という)。
3種類のニュートリノがある。
質量がひじょうに軽く、まだ質量の絶対量はわかっていない。

ニュートリノ振動について。
*ニュートリノが飛行中に別の種類に変換する現象のこと
*ニュートリノが質量を持つためので起こる現象
1998年、岐阜県神岡町のスーパーカミオカンデでの実験でニュートリノ現象が発見された。
ニュートリノの質量は0と考えられていたが、実は0ではなかったという大発見だった。
坂下氏は当時近いところに住んでいたが、テレビも新聞も見なかったので知らなかった。あとで残念だと思ったとのこと。

ニュートリノの実験は日本が世界をリードしている。
今年TK2実験でこれまで見つかっていなかったニュートリノ振動を世界で初めて発見した。

もしニュートリノでもCP対称性が破れていたら、物質と反物質の差を生む新しい証となり、宇宙発生の謎を解くのに役立つかもしれない。

1.ミュートリノから電子ニュートリノへ
2.反ニュートリノから電子ニュートリノへ
この2つの振動の出現回数をなどの差を測定する。

東海―神岡ニュートリノ振動実験
 東海村にあるニュートリノ実験施設で人工的に作った大量のニュートリノをスーパーカミオカンデで検出する実験。
 11カ国59の研究機関から約500名の研究者が参加している。

 ニュートリノは東海村の施設の地下110mの長さのトンネルの中で作られる。
 東海村から神岡までトンネルでつながっているわけではない。
 つくばから神岡まで電車とバスで約7時間掛かるが、ニュートリノは1000分の1秒で到達する。

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