2014/1/27 月曜日

2014.1.11「神谷美恵子生誕100年 記念の集い」@岡山市民文化会館(9)


日野原氏の講演のあと、帰る人が目立ったと書きました。
この集いの全貌と次の日の長島愛生園見学記を含めて書くのが今回のブログ記事の目標なので、長くなると思いますが、引き続きおつきあいください。

15:00~15:40 鼎談(ていだん)「神谷美恵子を語る~医師として、母として~」
順天堂大学教授 樋野興夫(ひの・おきお)、長島愛生園入所者 石田雅男、神谷美恵子次男・リコーダー奏者 神谷徹

樋野氏が進行役。専門は病理・腫瘍学。2008年順天堂大学に「がん哲学外来」を設立し、がん患者や家族を精神面で支える運動を展開しているとのこと。長島愛生園で2012年から「神谷美恵子記念がん哲学外来カフェin長島愛生園」を開催。毎月最終火曜日に園外の人も参加して、入所者と自由な会話をしてもらっている。

以下、敬称略でメモできた部分を再現します。文責はわたしにあります。間違っていたら申し訳ありません。

樋野:何も打ち合わせをしないまま出てきました。
日野原先生は立ったまま一時間お話しされましたが、我々は座ったままで失礼します(ぱぐ注:前に低いテーブル。左から樋野氏、神谷徹氏、石田氏の順にソファに座っての鼎談)。
わたしは医学部を卒業した年に神谷さんが亡くなっている(ぱぐ注:1979=昭和54年)ので、何も知りませんでした。
新渡戸稲造(ぱぐ注:にとべいなぞう、1862-1933。教育者、農学者。明治以降、日本のクリスチャンで活躍した人物の一人)の本を愛読していたのですが、新渡戸は神谷さんの両親の仲人です。そして神谷さんの父親が前田多門というのは歴史的なすごいことだと思います。
神谷さんは43歳から長島愛生園へ行き始めた。41歳の時、がんを発病しているのですが、それは子宮がんでした。
石田さん、神谷さんとの関わりについてどうぞ。

石田:21から22歳の時のわたしのつまずきについてお話しします。
ちょうど神谷先生が長島愛生園に来られたころのことでした(ぱぐ注:1957=昭和32年から神谷さんは長島愛生園の非常勤職員となった)。
わたしは21歳の時、プロミン(ぱぐ注:ハンセン病の特効薬)以外の薬を飲むようになって副作用が出て手足が不自由になり、重度障がい者となりました。愛生園には自殺の名所となっていた崖があります。そこに行っても、大量の薬を飲んでも死ぬことができなかった。
その時神谷先生に逢ってみようと思いました。
神谷先生はわたしの話を聞いてから、
「健康を失ったことは辛いでしょうね。死ねなかったということは自殺を思いとどまらせた強い力があなたを支えてくれるのではありませんか」
と言われました。
病む人にとっての精神医療が必要だと感じています。

樋野:医師として大切なことは、最高の技術で治すこと、それと人間として手を差しのべるということですね。「病気であっても病人にならない人」を作ること。
では神谷さん、息子さんの立場から母を語ってください。

神谷徹:あとになってから自分の母親の詳しいことを知ったのです。
小学校一年の時の担任の先生が「前田美恵子」さんだったので、(旧姓なら)同じ名前だと面白がっていました。
20代後半になってから母のやってきたことを知りました(ぱぐ注:神谷美恵子さんが1979年65歳で亡くなった時、次男の徹氏は30歳になる直前。1973年に結婚している。徹氏の妻永子さんは晩年の美恵子さんの良き話し相手だった)。
あんまり冗談は通じない人でしたね。喜怒哀楽は激しかった、父は反対に穏やかでした。料理はスイスで覚えたものとか、シャーベットを作ったりとか編み物をやっていたのも覚えています。
夫を立てていて、立派な人だと子どもに言っていました。それで母がすごい人だとはあんまり思ってなかったです(聴衆から笑い声が起きる)。
ドリトル先生を読んでくれたのですが、本人が好きで夢中になって読んでいました。
美しいもの楽しいことにはよく反応していました。

樋野:家庭において普通の人だったのは大切なことかもしれません。
新渡戸稲造は10歳くらいの神谷さんの頬をつねったというのですが、神谷さんはそれをずっと覚えていたことの一つとして書いています。
石田さん、何か付け加えることがありましたらどうぞ。

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