2014/1/14 火曜日

2014.1.11「神谷美恵子生誕100年 記念の集い」@岡山市民会館(1)

Filed under: 神谷美恵子,読書,日記,旅行,散文・文章 — ぱぐ @ 20:30:27

昨年12月30日の記事にも書いたけれど、上記の集いに行ってきた。

神谷美恵子って何者?と思う人が多いと思うので、簡単に生涯を紹介しておく。
かなり複雑な経歴なので簡単にならないかもしれませんが(^^;)。
年齢について詳しく書いているのは、成長段階で受けた影響を考慮するためです。頭に入れながらお読みください。
確認しながら書いていますが、間違いがあったらわたしの責任です。

【神谷美恵子】(かみや・みえこ 大正3=1914-昭和54=1979)
昭和54=1914年1月12日、内務官僚の父前田多門(まえだ・たもん、1884-1962)と母房子(旧姓金沢、1895-1955)の間の第二子として岡山市に生まれる。
内務官僚というのは今の内閣府・警察などを含むかなり幅の広い仕事を日本国内全部で扱うので、転勤が多い。また前田多門は有能な人で単なる役人以外の仕事も多くこなしている。この辺、美恵子への影響多し。
兄・陽一(のちフランス文学者、パスカルの「パンセ」を研究)とは三歳違い、二男三女の長女。順番は兄→美恵子→二女→三女→次男。
父の転勤が多く、それによって引っ越し・転校が多い。

九歳の時、父が国際労働機関(ILO)の日本政府代表としてスイス・ジュネーブに赴任するのに従い、一家で移り住む。
美恵子はジャン・ジャック・ルソー教育研究所の附属小学校に編入。少人数でいろいろな国の年齢もいろいろな子どもたちと共に学ぶ。
日本ではのびのびした公立の小学校から厳格なカソリックの小学校(聖心学院)に親の意向で転校したため、なじめなかった。
スイスの学校に大いになじみ、フランス語で考えるのがいちばん楽になったという。

十一歳の時、各国代表の子弟のために設立されたジュネーブ国際学校中等部に入学。
地理学が専攻で年配になってから年少者に教える楽しみのために赴任したフランス人のデュプイ先生の影響を受ける。

十二歳で父の仕事のため帰国。
帰国子女であり、言葉の問題もあって、帰国後に入学した私立学校(自由学園)では登校拒否を起こす(頑固な一面があることに注目)。
別の私立学校の女学校(成城高等女学校)に編入、こちらでは独学が奨励されたので合っていたという。
十二三歳ごろから「書くこと」に関心を持ち始める。

その後津田塾に学ぶが英語英文学にはそれほど関心がなかったという。
兄と共に放課後アテネ・フランセに通い、フランス語の勉強を続ける。
スイスにいたことで欧米語の語感が身に付いたためだろう、フランス語・英語・ドイツ語がかなりでき、後に古典ギリシャ語も独学で身につけている。

女学校にいたころから津田塾在学中に掛けて個人的な悩みがあり、自分の行く末に迷いがあった(この辺、どのくらいふれていいのかわかりませんが、大事なところだと思うので書いておきます)。
近しい人を亡くし大きなショックを受けたところで無教会主義キリスト教(内村鑑三などが中心となったキリスト教の信者の集まり。教会で神父<カソリック>や牧師<プロテスタント>の話を聞くのではなく、聖書を読むことで信仰を深めようとする)伝道師だった叔父(母の末弟)に頼まれてハンセン病療養所多摩全生園(現在の国立療養所多摩全生園、東京都東村山市)にオルガン弾きに付いて行く。十九歳の時、1933(昭和八)年。

ハンセン病は現在は薬で治る病気だが、当時はまだ薬が開発されていなかった。感染力は弱い。早期に適切な治療が受けられないと後遺症が残ってしまう。回復した人から感染することはない。

日本の場合は明治以降、近代化政策の中でハンセン病患者について強制隔離政策が長く採られ、昭和20年代以降、特効薬によって完治するようになってもそのまま隔離政策が採られ続けた。
1907(明治40)年に制定された「らい予防法」が廃止されたのは1996(平成8)年のことである。
国家賠償請求の裁判で原告が勝訴し「ハンセン病問題の早期かつ全面的解決に向けての内閣総理大臣談話」が発表されたのが2001(平成13)年。小泉純一郎首相。

神谷美恵子がどうハンセン病とその病気にかかった人たちと向き合ったか、というのは単なる病気の問題ではなく、政治や社会状況の変化といったことも考慮しなければならないのでむずかしい。

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