2004/12/4 土曜日

歴博のギャラリートーク

Filed under: 日記 — pug @ 22:55:56

連休二日目は佐倉の歴博に行つて来た。

歴博とは国立歴史民族博物館のこと。大阪の民博(国立民族学博物館)は修学旅行で行つたから、同級生の中には覚えてゐる人もあるだらう。大阪万博の記念公園内にある。

子どもの時から博物館・美術館は好きでよく行つたのだが、歴博は調布にゐるときは友の会に入つたことがあるくらい、気に入りのところ。調布からだと三時間かかる(!)ので行くのが大変だつたけど。我孫子に来てから行かう行かうと思ひつつ、今日まで果たせなかつた。

サイトで企画展が「明治維新と平田国学」と知つて、うーん、あんまり興味ないけどまあいいかと思つた。

ところが今日は「ギャラリー・トーク」といふものがある日だつたんですね。企画担当者が展示品の前で説明してくれる。前はなかつたけどいつからやるようになつたのかな。展示を見始めた直後にその時間になつた。今日は館長の宮地正人さんが担当で、これが実におもしろかつた。

平田篤胤(あつたね、1776-1843)は江戸後期の国学者で、その学風は地方の豪農や神官に広まり、尊皇運動に大きな影響を与へたことで有名。
島崎藤村(1872-1943)の小説『夜明け前』(1929=昭和2年)は自分の父をモデルに江戸末期から明治にかけての地方の豪農を描いた歴史小説だが、父・島崎正樹は平田国学の門人だつた。だいぶ前に読んだので冒頭の「木曾はすべて山の中である。」しか覚へてませんけど(^^;)。木曾は中三の時に学校の旅行で行つた。

国家神道の生みの親でなんだかうさんくさいと思つてゐたのだけど、宮地さんの話を聴きながら展示を見てゆくと、ぜんぜん違ふ男だつたのでびつくり。

平田神社といふのが東京代々木にあり篤胤を祀つてゐるのださうだが、彼は平将門の子孫だと思つてゐたので将門像が祀られていた。神田明神が関東大震災で全部焼け、戦後に将門をご祭神に祀り直したとき、この将門像がご神体として神田明神に行つたそうだ。今度の展示は平田神社の資料を調べて新しく発見されたものが中心になつてゐる。

篤胤は秋田藩士の四男に産まれてどこかの養子にでもなるところを、学問したいからと断りなく江戸に出てしまひ、食べるために飯炊きとか下男などをやつてるうちに、勤め先の奥女中(沼津藩士の娘)と恋仲になり、結婚するために備中松山藩士の養子になる。養父は兵学者だった。
当時ロシアが日本に通商を求めてきて大問題だつたのだが、それを知るために北方領土の地図を手に入れたり、ロシア語を勉強した。
その後、本居宣長(1730-1801)の国学に触れ、宇宙論や神道神学を作り、この世とあの世といふ考へ方を導入した。最後のは柳田国男の民俗学につながる。

恋仲だつた妻は早く死んでしまふのだが、小さな子どもがゐたので後妻をもらう。後妻も同じ名前を名乗るやうになるのがおもしろい。塾を経営して自費出版も行ふのだが、経営は前妻と後妻、そして三人の子どものうちたつた一人だけ無事に成長した娘の力が大きかつたとのこと。家計簿が出てきて克明に記録してあるさうだ。養子に入つた弟子が娘と結婚して塾を継ぐ。仏教や幕府の御用学問である朱子学と違ふところがあるため、弾圧を受け秋田に追放、執筆活動が禁じられる中で死んでしまふ。

『夜明け前』周辺の展示もあり、木曾の山向かうの伊那谷でも国学の影響が強かつたことを知つた。わたしの父は伊那谷出身だから、ほー、あの辺にもねえと思ひましたよ。

ところで高校生の時に読んだ土田直鎮<なおしげ>『平安朝の貴族』(中央公論、日本の歴史シリーズ第五巻)が好きで、いつときは日本史を専攻しやうと思つてゐたのだが、土田直鎮はここの二代目館長だつた。ミュージアムショップに『平安朝への道しるべ-奈良平安時代史入門』(吉川弘文館)があつたのでちよつと立ち読み。手持ちのお金が足りず買ふのはまたの機会にした。

せつかくだから、もつと頻繁に歴博に行くことにしやうつと。
お話を聞いてゐるうちに近くの「くらしの植物苑」(今の展示はさざんか)の展示時間が終はつてしまひ、残念だつた。

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