2006/4/7 金曜日

新宿での呑み会(2)人間がモノになる時点

Filed under: 日記 — pug @ 12:03:20

7時ごろ店に着くと、メンバーは誰もいず、客としてもわたしが第一号だった。

シャンディ・ガフ(ビールとジンジャーエールのカクテル)と野菜スティックを頼み、『司馬遼太郎が考えたこと6 エッセイ1972.4~1973.2』(新潮文庫)の続きを読む。

そのうちに、Eさんがお手製の大きな布バッグを抱えて到着。道具をたくさん持ち歩くので既成のじゃ入らないらしい。続いてMさん、Hさんが到着。

Eさんの刺繍の写真を見せてもらう。コウモリとかヤモリとかおもしろい題材が多い。今度フクロウを題材にするそうで、本を買ったという。

人間がモノになる時点の話で盛り上がる。

わたしの母方の祖母は別に住んでいたのだが、体調を悪くして我が家に来ているあいだに脳溢血になった。わたしはちょうどそれを目撃し、そのあとはずっと病院で過ごしたのだが、倒れた時点からわたしの知っている祖母はどこかへ行ってしまった。死ぬまで入院していた老人病院には、恍惚の人ばかりがいる部屋があり、お見舞いついでにそこへ行くと、毎回何か叫びながら近寄ってくるおばあさんがいて、今でも強烈な印象。あれももう、何かモノになっちゃってる感じだった。

Mさんは二十歳前後のころ葬儀屋に勤めていたことがあり、事故や事件で亡くなる人の扱いが多かったという。電車の飛び込み自殺は、後始末が実に大変らしい。レールにくっついたのを割りばしでそぎ落とすのだそうである。

あとは親の話で妙に女3人の意見が一致した。Hさんとわたしの親は70代、Eさんの親は60代なのだけど、特に母親に対して強いアレルギーみたいなものがあるらしい。殺意を抱いたことはないか、と訊かれたので、
「あるけど、日記の中でなら何べんでも殺してるね
と答えた。
精神的な母殺しがわたしにはたぶん必要で、それはほとんど関わりを持たなくなった今でもまだできているとは言い難い。他人に対して許容量はわりとあるらしいのに、自分の母親だけはどうしてもだめなのだ。母について考えはじめると否定的な言葉しか浮かんでこない。

お墓なんか要らないのだけど、どこかに粉になった骨を撒いてもらおうと思ったら、あらかじめ遺言しておいて許可をもらわないといけないんだって?知らなかった。

文学部出身で文学を専攻したのに、文学そのものより、文学の依って来たるところ、あるいは作者がなんでそういうものを書くようになったのか、ということに興味がある、という話をしたら、それを何か書くように勧められた。
歌人の掲示板で知り合ったメンバーなのだが、今も短歌を作ってるのはMさんしかいない。わたしはたまたまネットの歌会に誘われたからやむなく作ったことがあるだけで、つくづくああいう想像力とか飛躍が足りないことを意識したことはなかったな。読むのと詠むのはぜんぜん違う。

いつもは用心して一杯くらいしか呑まないのに、Mさんがボトルキープしたキンミヤ焼酎(甲類)をロックで2,3杯、ディタってなんだろうと思いながらディタライチというのを頼んだりした。ココナッツのリキュールらしい。

というわけで、呑みすぎて、帰りの車内では司馬遼太郎がまだ残っていて読んでいるうちに少し眠り、せっかく買った『謎の豪族 蘇我氏』はまだ手つかずです(笑)。

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