2014/1/27 月曜日

2014.1.11「神谷美恵子生誕100年 記念の集い」@岡山市民会館(11)

Filed under: 神谷美恵子,読書,日記,旅行,散文・文章 — ぱぐ @ 19:06:55

鼎談の続き2。

樋野:書くと人間が丁寧になりますね。
本を読みながら線を引くというのもいいかもしれません。昔読んだ神谷さんの本を読み返すと、前に線を引いたところはまた引きたくなります。
25歳までに考えることの基礎ができます。
いま、神谷美恵子の考え方を改めて学ぶ時だと思います。
どんな病気でもこころの悩みは同じです。
がんの末期の人でも笑顔の人がいるのは、教育の成果だと思う。
何かあった時に「このときのための人生だったかもしれない」と思うこと。
神谷さんは温かい情と高い知性の持ち主だった。
石田さん、神谷さん、最後に一言ずつどうぞ。

石田:一日一日を大切に生きることだと思います。

神谷徹:この会のことを知ったら、きっと母は「やあね」と言って逃げ出すと思います(ぱぐ注:神谷さんにははっきりものを言うところところと内気なところが同居していた)。
母は人のために役に立っているという意識はあまりなかったんじゃないかと思います。
わたしはこれからもあがいて生きていきます。

樋野:ではまとめです。愛生園の皆さん、神谷美恵子読書会のことはよろしいでしょうか?(再び聴衆より拍手)
今日はありがとうございました。

2014.1.11「神谷美恵子生誕100年 記念の集い」@岡山市民会館(10)

Filed under: ,神谷美恵子,音楽,読書,日記,旅行,散文・文章 — ぱぐ @ 19:06:40

鼎談の続き。

石田:愛生園の人たちにとっての「優しさ」ということを考えます。『生きがいについて』について後に書かれたことを直接言ってもらったのは貴重なことだと思っています。
神谷先生は入所者に「母」を思わせるところがありました。
青い鳥楽団という園内で結成された音楽活動グループで使うハーモニカを探したり、文芸活動や宗教活動を見守っていました。

樋野:わたしが関わっている小児がんの施設には犬が二匹いるのですが、病院ではおとなしいのですが、自宅に戻るとやんちゃだそうです。

神谷徹:愛生園に行って何をしているのか、説明されたことはなかったです。がんにかかっていたことも知らなかった(ぱぐ注:子宮がんになったのは41歳。長男律氏・次男徹氏ともまだ小学校低学年だった)。
のど自慢用の鐘を愛生園に贈るためにカタログを見ていたのは覚えています。
愛生園で音楽活動をする時、指揮をする人はゴム管を使うのですが、その話はしてくれました。
「使命感」、愛生園に行くのが自分の使命だということはよく言っていました。
息子が家でゴロゴロしていると歯がゆかったかもしれません。それは神谷美恵子を鍛えることの一つになったかもしれない(聴衆より笑い声)。

樋野:思想として練られたもの、使命感ということですね。神谷さんは正論より配慮を優先した。相手が間違っていてもまずは受け入れた。
(聴衆に向かって)これから毎日神谷美恵子の本を少しずつ読むといいかもしれません。
今の学生は自分の読みたいものを読み通そうとしない、すぐ人の意見に左右されてしまう。
長島愛生園で年に一回、神谷美恵子の読書感想発表会をしたらどうですか?若い人を対象にして。岡山だと山陽新聞かな、今日も来ていると思うのですが、後援してもらって(聴衆より拍手)。

石田:いいですね、是非やりたいです。

神谷徹:母は書くことが好きでした。頼まれなくても書いていた。息子にも書け書けと言いました。
手紙はすぐ出すし、論文の提出も早かったです。論文は早すぎるとあとでそれを参考にして他の人が論文を書いたりするので、タイミングが悪くなって怒っていることもありました。
せっかちで、電話が鳴ると走っていました。
タイプライターの音やインク消しのにおいを覚えている(ぱぐ注:最晩年、完成できなかった英国の作家ヴァージニア・ウルフに関する英文論文のことではないかと思われる)。

2014.1.11「神谷美恵子生誕100年 記念の集い」@岡山市民文化会館(9)

日野原氏の講演のあと、帰る人が目立ったと書きました。
この集いの全貌と次の日の長島愛生園見学記を含めて書くのが今回のブログ記事の目標なので、長くなると思いますが、引き続きおつきあいください。

15:00~15:40 鼎談(ていだん)「神谷美恵子を語る~医師として、母として~」
順天堂大学教授 樋野興夫(ひの・おきお)、長島愛生園入所者 石田雅男、神谷美恵子次男・リコーダー奏者 神谷徹

樋野氏が進行役。専門は病理・腫瘍学。2008年順天堂大学に「がん哲学外来」を設立し、がん患者や家族を精神面で支える運動を展開しているとのこと。長島愛生園で2012年から「神谷美恵子記念がん哲学外来カフェin長島愛生園」を開催。毎月最終火曜日に園外の人も参加して、入所者と自由な会話をしてもらっている。

以下、敬称略でメモできた部分を再現します。文責はわたしにあります。間違っていたら申し訳ありません。

樋野:何も打ち合わせをしないまま出てきました。
日野原先生は立ったまま一時間お話しされましたが、我々は座ったままで失礼します(ぱぐ注:前に低いテーブル。左から樋野氏、神谷徹氏、石田氏の順にソファに座っての鼎談)。
わたしは医学部を卒業した年に神谷さんが亡くなっている(ぱぐ注:1979=昭和54年)ので、何も知りませんでした。
新渡戸稲造(ぱぐ注:にとべいなぞう、1862-1933。教育者、農学者。明治以降、日本のクリスチャンで活躍した人物の一人)の本を愛読していたのですが、新渡戸は神谷さんの両親の仲人です。そして神谷さんの父親が前田多門というのは歴史的なすごいことだと思います。
神谷さんは43歳から長島愛生園へ行き始めた。41歳の時、がんを発病しているのですが、それは子宮がんでした。
石田さん、神谷さんとの関わりについてどうぞ。

石田:21から22歳の時のわたしのつまずきについてお話しします。
ちょうど神谷先生が長島愛生園に来られたころのことでした(ぱぐ注:1957=昭和32年から神谷さんは長島愛生園の非常勤職員となった)。
わたしは21歳の時、プロミン(ぱぐ注:ハンセン病の特効薬)以外の薬を飲むようになって副作用が出て手足が不自由になり、重度障がい者となりました。愛生園には自殺の名所となっていた崖があります。そこに行っても、大量の薬を飲んでも死ぬことができなかった。
その時神谷先生に逢ってみようと思いました。
神谷先生はわたしの話を聞いてから、
「健康を失ったことは辛いでしょうね。死ねなかったということは自殺を思いとどまらせた強い力があなたを支えてくれるのではありませんか」
と言われました。
病む人にとっての精神医療が必要だと感じています。

樋野:医師として大切なことは、最高の技術で治すこと、それと人間として手を差しのべるということですね。「病気であっても病人にならない人」を作ること。
では神谷さん、息子さんの立場から母を語ってください。

神谷徹:あとになってから自分の母親の詳しいことを知ったのです。
小学校一年の時の担任の先生が「前田美恵子」さんだったので、(旧姓なら)同じ名前だと面白がっていました。
20代後半になってから母のやってきたことを知りました(ぱぐ注:神谷美恵子さんが1979年65歳で亡くなった時、次男の徹氏は30歳になる直前。1973年に結婚している。徹氏の妻永子さんは晩年の美恵子さんの良き話し相手だった)。
あんまり冗談は通じない人でしたね。喜怒哀楽は激しかった、父は反対に穏やかでした。料理はスイスで覚えたものとか、シャーベットを作ったりとか編み物をやっていたのも覚えています。
夫を立てていて、立派な人だと子どもに言っていました。それで母がすごい人だとはあんまり思ってなかったです(聴衆から笑い声が起きる)。
ドリトル先生を読んでくれたのですが、本人が好きで夢中になって読んでいました。
美しいもの楽しいことにはよく反応していました。

樋野:家庭において普通の人だったのは大切なことかもしれません。
新渡戸稲造は10歳くらいの神谷さんの頬をつねったというのですが、神谷さんはそれをずっと覚えていたことの一つとして書いています。
石田さん、何か付け加えることがありましたらどうぞ。

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