2008/11/21 金曜日

平林寺のもみじ

Filed under: 日記 — ぱぐ @ 8:01:16

平林寺のもみじその1

整骨院に行く。いつも土曜日に行っていたのだけど、混んだので避けて正解だったとのこと。寒いのでローリングベッドの次はホットパッド、そしてマッサージ。
ふくらはぎと腰、お尻がキテいた。
家にいるとパソコンに向かう時間が多いので、その分が負担になるんだと思う。仕事と違って自分の楽しみですが。

そのあと、いいお天気だったので、新座の平林寺へ。
コールセンターの同僚にずっと新座住まいの人がいるので訊いてみたら、小学生の遠足や写生のコースになってるんだそうだ。
バスの時間が合わないので新座駅から歩いたらけっこう距離があってびっくり。
途中で「たぬきに注意」という注意書きを見かける。
「たぬきに注意」

おなかが空いたので平林寺に行く前に「たけ山」という、うどん屋に入る。このへんはうどんをよく食べていたところなのだそうで、「武蔵野うどん」という看板の店が多い。
「たけ山」は水沢うどん風で細い上品な感じだったが、武蔵野うどんは手打ちで豪快な感じで、豚のバラ肉を煮込んだ漬け汁(肉汁という)で食べる。「たけ山」で食べたのはピリ辛みそ根菜うどんで古代米のご飯がすこしと漬け物付き。

平林寺のもみじその2
平日の昼間なので、平林寺はおじさんおばさんが多かった。集団で歩いているのは観光客だったのかも。ここは京都の臨済宗妙心寺派(禅寺)だという。

平林寺のもみじその3 

妙心寺は学生の時、源氏物語のゼミが終わった春休みにゼミ旅行で泊めてもらった。
夕飯が仕出し屋のもので赤い塗り物の入れ物に入っていたことと、先生が一升瓶を持ち込んだのでお寺なのに般若湯(お酒のことをこう言います)をいただいたのを覚えている。
前にも書いたように学生時代のわたしは成績なんかどうでもいいやというやけっぱちな態度だったので、ゼミの時間に居眠りして温厚なH先生に活を入れられたことがある。というわけで、源氏物語のどこの部分を読んだのか覚えていません(^^;)。
平林寺のもみじその4

かなり広い境内で、前に行った松戸の本土寺より広いかもしれないなあ。原生林みたいなところもあるし(たぶんそこにたぬきが住んでいるのでありましょう)。
元は岩槻というところにあったのを、ここの大檀家である松平信綱(1596-1662)の遺言に従い、野火止(のびどめ)に移したのだという。信綱は旗本の家から叔父の家に養子に入って三代将軍家光のお小姓として仕え、その後川越藩の藩主、老中になった人。島原の乱の後始末をしたので、乱の戦没者を祀った供養塔があった。
信綱は「知恵伊豆」というあだ名があっていろんなエピソードがあるそうですが、わたしは詳しく知りません。三代家光・四代家綱の両将軍の時期、徳川幕府の基礎固めに大きく貢献した人物であります。 

平林寺のもみじその5 

野火止用水がお寺の中を流れているのだが、東村山のあたりにも通っている。信綱が玉川上水の小川村(今の小平市)から引いたそうで、全長25キロ。周辺の飲料水として使われたそうだが今は使われていない。終点は志木の新河岸川に流れ込んでいるそうです。

一人でうろうろしていたら、写真を撮りに来たとおぼしいどこかのおじさんが話しかけてきて、
「あそこに島原の乱の供養塔があったでしょう」
と言ったのでびっくり。
ほかに武田信玄の娘(次女)・見性院(けんしょういん、1545-1622)の宝篋印塔(ほうきょういんとう、供養塔の一種とのこと)があった。穴山梅雪(あなやま・ばいせつ、1541ー1582)という武田氏の有名な武将(信玄の甥)の正室になった人で、梅雪亡き後は彼と親しかった家康に養われ、二代将軍・秀忠の庶子である保科正之(会津藩の藩主)とその母を引き取って養育したそうです。
ほかにもありますが、紹介はこの辺にしておきます。

 
平林寺山門の額
山門の額が京都の詩仙堂を建てた石川丈山(1583-1672)の字なので、写真を撮りました。丈山は徳川家康の部下だった武将で大阪夏の陣にも出陣したがその後は引退して儒学を学び、漢詩を作っていた。
詩仙堂は高校の修学旅行の時、グループのコースに選んだお寺の一つで気に入ったので、10年ほど前に京都に行った時も再訪している。

……
<きのうの夕飯>
寒かったので家人の希望でキムチ鍋。冷蔵庫のありものを具にする。
豚肉切り落とし、ごぼう、白菜、人参、長葱、大根。
〆にこの間炊いた冷凍ご飯を一膳分使った。
ほかにほうれん草のみそ汁、薩摩揚げのセット、大根などいろいろ野菜の漬物、玄米茶。
まだぎんなん割りを使う機会がありません。今日あたりできるかな?

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