2008/1/21 月曜日

MISIAのコンサート

Filed under: 未分類 — ぱぐ @ 19:35:09

20日はMISIAのコンサートに行った(さいたまスーパーアリーナ)。たしかデビューしてすぐ家人がCDを買ってきて、
「すごく上手!」
と騒いだのでそれからのファンだと思う。デビューして10年だそうだからファン歴も10年。チケットが取れないのでファンクラブに入っている(あと家人が入っているのは山下達郎)。

さいたまスーパーアリーナは改装したのか、女性トイレが増えたのと席番号がわかりやすくなりました。席はアリーナ席の左前の方。バンドメンバーの顔が直接わかったからかなりいい席だろう。

MISIAのバックバンドは山下達郎のバックバンドと重なっていて(ドラム青山純、キーボード重実徹=バンドマスター兼アレンジャー、ベース伊藤広規。今は参加していないがコーラスとオルガンの佐々木久美も)、なんとなくおなじみさん?な感じがする。この辺は家人がアマチュアバンドをやっているから興味を持ったことで、それまではバンドのメンバーってあんまりよくわからなかった。

ツアーの真ん中へんで同じ会場では2日目だったらしい。MISIAは高音が抜群にいいがのどがそんなに強くないので、チケットは取るなら1日目にすべきだったとのこと。すこし声がかすれていました。去年聴いた(新横浜アリーナ)のがすごく良かった。
アレンジを変えてバックバンドの音を小さめにし、MISIAの声が聞こえやすくなったとのこと。それと中音域がうまくなった、と家人が言っておりました。

最近のCDはちゃんと聴いてないので初めて聴くのが多かった。今「めざましテレビ」のテーマ曲をやっているのであれは知っているけど。
「星の降る丘」はやっぱり名曲だと思う。野外でのアコースティックライブ「星空のライブ」に行ったことがないので、それで「星の降る丘」を聴きたい。

映画「その名にちなんで」

Filed under: 日記 — ぱぐ @ 12:07:40

同級生の都合が合わなくて一緒に行けなかった映画「その名にちなんで」を20日にLさんと観る(日比谷のシャンテ・シネ)。

ジュンパ・ラヒリJhumpa Lahiriという作家をご存じでしょうか?
カルカッタ出身のベンガル人の両親の子としてロンドンに生まれ、幼少期にアメリカに移って育った女性です。年代はわたしより3つ上。

短編集『停電の夜に』(小川高義・訳、新潮文庫、1999)は旅先の駅前の本屋でさんざん迷ったあげく買った本で、瀬田の宿の小さなバスタブの中で感心しながら読んだことを思い出します。「停電の夜に」「セクシー」「三度目で最後の大陸」が好き。

『その名にちなんで』(小川高義・訳、新潮クレストブックス、2004→新潮文庫にも入りました)は初めての長編で、インドからアメリカに移ってきた両親の子供として生まれた男の子の話。名前はインド人としては異例の「ゴーゴリ」。ロシアの作家の名前、それも名字(笑)。これはお父さんにとっては自分の人生にかかわる大事な名前でした。親はインド人の感覚なのだが子供はアメリカ人の感覚で育って名前のことで悩み……

という話で、海外の文学も最近の小説もあまり読まないわたしとしては異例に気に入っている作家です。ほかに「考える人」(2007年春号、No.20、新潮社)という季刊誌の「特集 短編小説を読もう」に「一生に一度」という短編小説が同じ訳者の手で載っています。
今年は新しい短編集が出るそうなので楽しみ。

同級生は映画は一緒に観られないけど、小説は読み始めた、とこの間逢ったときに言っていた。どうだった、おいちゃん?
 

小説は良くできていたけど、映画の場合は生活のこまごましたところがわかるので、インドの食べ物とか街の様子などがわかるだろうという意味でも楽しみにしていた。
わたしはまず文字から入る方なので観たものも言葉にしたいわけですが、映画だと小説の中の会話は俳優という体を通してこちらに伝わるわけですね。肉体化されるというか。芝居もそうだけど。

わたしが抱いていたインドのイメージは
*仏教発祥の地
*今はコンピュータ関係の技師がたくさん出ているところ(数学に強い)
*カーストというのがあるところ
*子供の時に読んだ本に、「ギー」という食べ物?油?が出てきたことを覚えている
*俵万智がカルカッタへ旅行したあとにトークショーをやって行ったことがある
*北と南はたしか違う民族で文化も違った気がする

というような、昔と今がごっちゃになっておりまして(笑)、
ああ、あと、
*女の人がとてもきれい
というイメージもあったかな。彫りが深くて目が大きくて。

正直なところ、ベンガル人、といわれてもほかに何人があってその違いは何なの?と誰かに訊きたいところなのだが、そこから始めると何も書けなくなってしまうので、はしょります。

主人公は「ゴーゴリ」、しかし視点は(原作でもそうだが)、親の代のことから始まります。わたしで言えば父が信州の伊那の生まれで母が東京の中野杉並で育ったというような。この話の場合は地球を半周してたどり着く全く別の言葉、習慣、人種のいる国に移るわけですから、親の感覚と子供の感覚は相当違ってしまうわけですね。世代間の違いというよりその距離感が強く意識されていたような気がする。

ゴーゴリ君は初めての子供なので、特にそういうことを意識したのかなあという気がする。おまけに自分の名前は「ゴーゴリ」?外国の名字で、しかもゴーゴリという作家は幸せな一生を送ったのではないらしい、ということを高校の授業で知ってしまって、名前に嫌悪感を感じる。ということは自分に対しても嫌悪感を感じるし、そんな名前を付けた父親に対してもいい感情をもてないわけです。

お父さんは工学系の学者で、物静かな感じの人なので子供が名前を変えたい(正式名称もあとで決めたのだが4歳のゴーゴリ君は「ゴーゴリ」がいいと言ったのでゴーゴリになっていた)と言い出したときにも、特に何も言わなかった。

人の感覚というのは無意識の部分が大きいので、急な路線変更は必ずどこかに無理ができます。
ゴーゴリ君はいかにも典型的なアメリカ人のガールフレンドとつきあうのだけど(これにも無理してませんかねという感じがあった)、一転して彼女の気持ちを踏みにじるような態度を取ってしまい、今度は自分と同じような移民のベンガル人と結婚するのだけど、ああ、危ない、と観ていて(結末は知っているのだが)思った。もうちょっと良く自分を掘り下げてみないと、そんな衝動みたいなのはいけないよ。

作家のゴーゴリについては何にも知らないし本も読んだことがないのだが(『チェーホフ・ユモレスカ』も読み掛けだ)、知らなくても楽しめます。

映画公開、東京ではシャンテ・シネで2月1日(金)まで。

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