高幡不動詣りと土方歳三の生家(2)
そのあと、歳三の生家がある石田に向かう。多摩川の支流である浅川で、歳三は家伝の薬の材料である薬草を集める指図役を務めていて、その経験が新撰組を運営するのに役立ったのではないか、というのが『燃えよ剣』での司馬遼太郎の見方。石田に行くために浅川を横切った。けっこう河川敷が広いんですね。
司馬遼太郎が石田を訪ねたのはわたしが生まれるより前のことなのだけど(『燃えよ剣』は昭和37<1962>年11月19日号~同39年3月9日号の「週刊文春」に連載)、そのころはもっと多摩の農村の風景が残っていただろう。古い農家らしい家はあまり見かけなかった。
「土方」という名前が村(昔は石田村だった)にはたくさんあるらしい、と書いていたのだけど、ほんとうに土方さんだらけで驚く。どうやって区別してるんだろう?屋号かな。「土」の字の右上に「、」が付いている名前も見かけた。
土方歳三の生家が資料館になっているのは知っていた。歳三の兄の子孫が住んでいるお宅なので、月に二回しか公開していない。今回は場所だけ確認するつもりで来た。
実は歳三がこどものころ、洪水に遭って、今の場所に越してきたのだという。もっと浅川に近いところにあったらしい。
石田寺<せきでんじ>にも行ってみた。ここは高幡不動の末寺で、地元の人達のお墓があるところ。ここも土方さんだらけで、びっくりする。家紋が右三つ巴なのは共通していた。
歳三は函館で戦死したので、遺骨はここにはないのだけど(埋葬場所は不明とのこと)、生家の人達のお墓がここにある。のちに官軍になった人達をたくさん斬ったことで新撰組はずっと憎まれてきた存在だったし、歴史上の評価をされたのも昭和の30年代以降だから、それまではひっそりと子孫や関係者が語り継いできたはずだ。
今度ゆっくり、歳三資料館と、歳三の姉が嫁いだ佐藤彦五郎記念館、日野宿本陣(佐藤家の建物が残っている)、天然理心流からの仲間である井上源三郎記念館などを訪ねてみたい。
実は京都の屯所があった壬生にも行ったことがないので、そちらも。
文中で紹介した司馬遼太郎のエッセイは「土方歳三の家」(『司馬遼太郎が考えたこと2』新潮文庫)です。
『燃えよ剣』と土方歳三についてはこんな過去ログがありました。
司馬遼太郎で好きな作品3つ 2007.9.10
いちばん好きな司馬遼太郎の小説 2006.3.22