2014/1/22 水曜日

2014.1.11「神谷美恵子生誕100年 記念の集い」@岡山市民文化会館(5)

最初に長島愛生園園長・藤田邦雄氏から挨拶があったのだが、わたしは開演時間を過ぎてから会場に着いたので、詳細はわからず。
神谷美恵子と長島愛生園の関わりについて話したものと思われる。

なお、今回の集いの主催者は長島愛生園と長濤会。
共催が長島愛生園入所者自治会、長島愛生園歴史館、笹川記念保健協力財団、岡山県、岡山市、瀬戸内市。
後援がふれあい福祉協会、岡山県教育委員会、岡山市教育委員会、瀬戸内市教育委員会、岡山県医師会、岡山県看護協会、ハンセンボランティア「ゆいの会」。
協力が山陽女子高等学校(たぶん司会を務めた女性二人。放送部ではないかと思う)。

14:00~15:00 講演「人生の生き方の選択」
聖路加国際メディカルセンター理事長・笹川記念保険協力財団名誉会長 日野原重明

昨年10月4日に102歳になったとのこと。神谷美恵子が生誕100年(亡くなったのは65歳)なので、さらに年上で健在と言うことになる(!)。
杖も突かずにすたすた出てきて一時間立ったまま、パワーポイントを使って講演をしたので聴衆が度肝を抜かれていました(笑)。
パワーポイントの操作は誰かにやってもらったし、背中が曲がっているのは年齢的にやむを得ないでしょうが、これが(噂の日野原先生か!)と思いました。

実は日野原さんは昨年6月東京都東村山市にあるハンセン病療養所全生園内の国立ハンセン病資料館でも講演しています。ハンセン病資料館開館20周年記念です。わたしはそれをやったのをつい最近知って愕然としたのですが、その時のお題は「ハンセン病の患者に生涯を捧げた神谷美恵子医師の生き方」です。今回の講演はそれに重なる部分が多いのではないかと思います。

日野原さんが現在名誉会長を務める笹川記念保険協力財団はハンセン病の撲滅と病気について一般市民に広く理解してもらう取り組みをしています。
同時代の同じ医師であるけれども、神谷美恵子に直接逢ったことは一度もない。
ただ、神谷美恵子が訳した本の影響は受けた。

GHQが聖路加病院を接収した時、米軍の野戦病院として使われたが、聖路加の人は中に入ることを許されなかった。メディカルライブラリーのパスが欲しいと申し出たら、午後だけ通ってもいいということになった。ウィリアム・オスラー(ぱぐ注:1849年- 1919年、カナダの臨床医師、内科医)の本の中に「医師が読むべき10冊の本」、というのがあり、その中にマルクス・アウレリウス『自省録』があった。(ぱぐ注:マルクス・アウレリウスはローマ帝国の皇帝。五賢帝の一人。若いころ哲学を学んだので哲人皇帝といわれる。『自省録』は多忙な公的生活の中で自分を振り返って書き残したもの)
読みたいと思っていた時に、神谷さんが翻訳を出したので、さっそく読み大きな影響を受けた(ぱぐ注:今は岩波文庫に神谷美恵子訳が入っています)。

同時代人なので、自分と神谷美恵子の履歴を振り返る(パワーポイントで両者の経歴事績を表にして示す)。
日野原氏は山口県山口市出身の長州人。七歳で神戸の小学校に入学→腎臓病で休学→関西学院中学校入学→京都の第三高等学校、通称三高入学(ぱぐ注:岡山には第六高等学校、通称六高があった。漱石の弟子の一人で作家の内田百閒は岡山市出身で六高を出ている。大学時代はドイツ語ドイツ文学専攻)→京都帝国大学医学部に学ぶ。在学中に結核にかかって広島で療養(ぱぐ注:お父さんが広島女学院の院長だった。両親共にクリスチャン。お父さんはメソジスト派の牧師。日野原氏もクリスチャン)。

影響を受けたウィリアム・オスラーの本は、後に仁木久恵さんさんと共に翻訳をした→『平静の心―オスラー博士講演集』(医学書院)。

2014.1.11「神谷美恵子生誕100年 記念の集い」@岡山市民会館(4)

集いの概要について(敬称略)。

13:20 会場、14:00開演 場所は岡山県岡山市の岡山市民会館大ホール。
一般で応募当選したのが1500名(同行者二名まで)、他に招待者もあった。1600名くらい集まったらしい。

14:00~15:00 講演「人生の生き方の選択」
聖路加国際メディカルセンター理事長・笹川記念保険協力財団名誉会長 日野原重明
(ぱぐ注:日野原氏は内科医。循環器、つまり心臓・血管などが専門)

15:00~15:40 鼎談(ぱぐ注:ていだん。三人で話をすること)「神谷美恵子を語る~医師として、母として~」
順天堂大学教授 樋野興夫(ひの・おきお)、長島愛生園入所者 石田雅男、神谷美恵子次男・リコーダー奏者 神谷徹

15分の休憩を挟んで
15:55~16:40 コンサート「バロック音楽のひととき」
演奏:テレマン・アンサンブル 指揮:延原武春 独奏:神谷徹/リコーダー 出口かよ子/フルート・リコーダー 浅井咲乃/ヴァイオリン

2014/1/15 水曜日

2014.1.11「神谷美恵子生誕100年 記念の集い」@岡山市民会館(3)

Filed under: 神谷美恵子,読書,日記,旅行,散文・文章 — ぱぐ @ 21:40:02

すみません、なんと3回目の前置きです。

アメリカ留学中もいろいろ迷いがあって時間が掛かっていますが、医学に転校することを決め(父前田多門の許可を得るまで時間が掛かった)、アメリカで少し医学を学んだあと、太平洋戦争前に帰国し、東京女子医学専門学校(現在の東京女子医科大学)に編入、日本の医師の資格を得ます。

ハンセン病のために働きたい、という希望があり在学中の昭和18=1943年に岡山県にある長島愛生園というハンセン病療養所に見学に行っています。
ただ家族の反対などもあり、専攻を精神医学にすることに決め、東京帝国大学医学部の精神医学教室に入りました。当時は戦争末期で男性医師は出征している者が多く、医師の数が足りず空襲もあったりしてたいへんだったそうです。

戦後は父前田多門が文部科学大臣に任命されたので、当時の駐留軍GHQ(アメリカ軍)との交渉のために語学の手伝いをしています。六三三制などがこのときできています。前田多門辞任後も次の大臣、安倍能成(哲学者、夏目漱石の弟子の一人)に請われて引き続き文部科学省勤務。

そのあと生物学者の神谷宣郎(かみや・のぶろう、1913-1999)と結婚、当時宣郎氏は東京大学の講師でしたが後に大阪大学理学部の教授になったので、美恵子も一緒に関西住まいとなる。

まだ紆余曲折がありますが、長島愛生園に勤務することができるようになったのは昭和32=1957年、43歳の時です。まず非常勤職員として週末を中心に神戸市の自宅から5時間余り電車と船を乗り継いでの勤務でした。
精神科の医師として治療を行いながら面接やアンケートで調査を実施。このとき、まだハンセン病療養所では国の政策として「絶対隔離」が行われていたので、家族や郷里と切り離されてここに入った人が多い。年少のころの入所だと、その当時はよくわからなくてあとでなってから事情を知るという人もいたはずです。

美恵子自身も若いころに自分が将来どうしたらいいのか、という悩みを抱えていたこともあって「生きることの意味、生きがい」を探していたところがあったのですが、患者さんたちの話を聞いているうちに「生きがい」についてさらに深く考えるようになりました。これは後に『生きがいについて』(みすず書房、1966)という著書にまとめられます。
美恵子は西洋哲学の影響をかなり受けたので、そちらの考え方が強くなかなか手強い本ですが、興味のある方はどうぞ。

さてそろそろ「記念の集い」のレポートに入ります。おいおい注釈を挟みますので、神谷美恵子の経歴よりも考え方、何をしようとしていたか、ということにご注目ください。

2014.1.11「神谷美恵子生誕100年 記念の集い」@岡山市民会館(2)

Filed under: 神谷美恵子,読書,日記,旅行,散文・文章 — ぱぐ @ 21:38:48

前置きが長くてすみません。
まだ神谷美恵子(当時は前田美恵子、以下美恵子と書きます。敬称略)がハンセン病に初めて出逢ったところの話でした。十九歳の時です。
(1)の記事のハンセン病に関する社会的政治的な変動については、このあともずっと関係しますので頭に入れて置いてください。

若いころに大きなショックを受けるとその反動といったようなことが起こるのは誰しもあることだと思うのですが、美恵子はここでこの人たちのために働くことはできないか、と考え始めます。「病気」ではなく「病気になった人たち」のために、というところが大事なポイントです。

その後、自身が結核にかかっていったん治癒したものの(結核もまだ有効な治療薬が発見されていなく、静かな空気のきれいなところで過ごすのが当時の療養スタイル)、また再発するということがありました。ハンセン病と結核はすぐに死亡につながりにくい、というところに共通点があります。病んでいることが自分でよくわかり、ゆっくりと死に向かっていく、というのが現在の死因第一位のがんと違うところだと思います。

結核の治癒が認められたのが23歳。当時だと女性は結婚年齢が早めですからやや過ぎています。当時の家事は電化製品がないころで手作業が多い。疲れるのはまた再発のおそれもあるので主治医からは5年間は結婚するのはむずかしいい、という忠告を受けています。
津田塾では将来を嘱望されていてアメリカ留学を勧められた(創設者津田梅子1864-1929は7歳で最初の女子留学生の一人として渡米。帰国後華族女学校で教えるが再度留学後、津田塾を開いた)。

経歴だけ追っていっても神谷美恵子自身を知ることにはならないと思うので、人となりをわたしなりにまとめながら書いていますが、改めてむずかしいなあと思います。
もう一回、前置きを挟みます。よろしくおつきあいください。

2014/1/14 火曜日

2014.1.11「神谷美恵子生誕100年 記念の集い」@岡山市民会館(1)

Filed under: 神谷美恵子,読書,日記,旅行,散文・文章 — ぱぐ @ 20:30:27

昨年12月30日の記事にも書いたけれど、上記の集いに行ってきた。

神谷美恵子って何者?と思う人が多いと思うので、簡単に生涯を紹介しておく。
かなり複雑な経歴なので簡単にならないかもしれませんが(^^;)。
年齢について詳しく書いているのは、成長段階で受けた影響を考慮するためです。頭に入れながらお読みください。
確認しながら書いていますが、間違いがあったらわたしの責任です。

【神谷美恵子】(かみや・みえこ 大正3=1914-昭和54=1979)
昭和54=1914年1月12日、内務官僚の父前田多門(まえだ・たもん、1884-1962)と母房子(旧姓金沢、1895-1955)の間の第二子として岡山市に生まれる。
内務官僚というのは今の内閣府・警察などを含むかなり幅の広い仕事を日本国内全部で扱うので、転勤が多い。また前田多門は有能な人で単なる役人以外の仕事も多くこなしている。この辺、美恵子への影響多し。
兄・陽一(のちフランス文学者、パスカルの「パンセ」を研究)とは三歳違い、二男三女の長女。順番は兄→美恵子→二女→三女→次男。
父の転勤が多く、それによって引っ越し・転校が多い。

九歳の時、父が国際労働機関(ILO)の日本政府代表としてスイス・ジュネーブに赴任するのに従い、一家で移り住む。
美恵子はジャン・ジャック・ルソー教育研究所の附属小学校に編入。少人数でいろいろな国の年齢もいろいろな子どもたちと共に学ぶ。
日本ではのびのびした公立の小学校から厳格なカソリックの小学校(聖心学院)に親の意向で転校したため、なじめなかった。
スイスの学校に大いになじみ、フランス語で考えるのがいちばん楽になったという。

十一歳の時、各国代表の子弟のために設立されたジュネーブ国際学校中等部に入学。
地理学が専攻で年配になってから年少者に教える楽しみのために赴任したフランス人のデュプイ先生の影響を受ける。

十二歳で父の仕事のため帰国。
帰国子女であり、言葉の問題もあって、帰国後に入学した私立学校(自由学園)では登校拒否を起こす(頑固な一面があることに注目)。
別の私立学校の女学校(成城高等女学校)に編入、こちらでは独学が奨励されたので合っていたという。
十二三歳ごろから「書くこと」に関心を持ち始める。

その後津田塾に学ぶが英語英文学にはそれほど関心がなかったという。
兄と共に放課後アテネ・フランセに通い、フランス語の勉強を続ける。
スイスにいたことで欧米語の語感が身に付いたためだろう、フランス語・英語・ドイツ語がかなりでき、後に古典ギリシャ語も独学で身につけている。

女学校にいたころから津田塾在学中に掛けて個人的な悩みがあり、自分の行く末に迷いがあった(この辺、どのくらいふれていいのかわかりませんが、大事なところだと思うので書いておきます)。
近しい人を亡くし大きなショックを受けたところで無教会主義キリスト教(内村鑑三などが中心となったキリスト教の信者の集まり。教会で神父<カソリック>や牧師<プロテスタント>の話を聞くのではなく、聖書を読むことで信仰を深めようとする)伝道師だった叔父(母の末弟)に頼まれてハンセン病療養所多摩全生園(現在の国立療養所多摩全生園、東京都東村山市)にオルガン弾きに付いて行く。十九歳の時、1933(昭和八)年。

ハンセン病は現在は薬で治る病気だが、当時はまだ薬が開発されていなかった。感染力は弱い。早期に適切な治療が受けられないと後遺症が残ってしまう。回復した人から感染することはない。

日本の場合は明治以降、近代化政策の中でハンセン病患者について強制隔離政策が長く採られ、昭和20年代以降、特効薬によって完治するようになってもそのまま隔離政策が採られ続けた。
1907(明治40)年に制定された「らい予防法」が廃止されたのは1996(平成8)年のことである。
国家賠償請求の裁判で原告が勝訴し「ハンセン病問題の早期かつ全面的解決に向けての内閣総理大臣談話」が発表されたのが2001(平成13)年。小泉純一郎首相。

神谷美恵子がどうハンセン病とその病気にかかった人たちと向き合ったか、というのは単なる病気の問題ではなく、政治や社会状況の変化といったことも考慮しなければならないのでむずかしい。

2013/12/30 月曜日

「神谷美恵子生誕100年 記念の集い」に向けて

こんばんは。年度末の夜をいかがお過ごしでしょうか。

わたしは新年早々1月11日に「神谷美恵子生誕100年 記念の集い」というのが岡山市で行われるのに参加できることになりました。
神谷さんが来年で生誕100年というのは気がつかなかったのですが、65歳でお亡くなりになったのが1979年10月12日、わたしが中学二年の時です。当時は神谷さんのことは何も知らず、卓球と読書に精を出していて、司馬遼太郎の『燃えよ剣』(新潮文庫)にはまったのがこの年ではないかと思います。

神谷さんのことを知ったのはたしか二十歳前後のことで、母が追悼特集の「みすず」を見せてくれたのだった思います。その時は、
(こういう、いい顔をした女の人ってどういう育ちをしたのかな)
と思ったのですが、その後数年の内に大枚はたいてみすず書房から出ていた著作集を全部買って、精神医学とかミッシェル・フーコーなどは全然ワケのわからないまま一応全部読んでみました(いまでもそっちの方は誰かにレクチャーしてもらわないと理解できません)。

その後、いろいろなことがありましたが、なんとかして自分が感じる神谷さんを文章としてまとめてみたい、という気持ちは著作集を読み始めたころから変わっていません。30年弱になるのかな(!)。
今度の岡山行きで、ひとつ何か感じてきたいと思っています。本を読んでるだけではわからないことが現地ではあるはずので。
そちらは、またこのブログに何か書きたいと思います。

休み休みの更新なので、こちらを続けて読んでださる方がいらっしゃるのかよくわかりませんが、みなさま、よいお年をお迎えください。

*コメントを受け付けない設定になっちゃってますが、できるようにあとで家人に直してもらいます。しばらくお待ちくださいませ。

2013/11/14 木曜日

風通しの良い言葉の使い方のために―丸谷才一さんのこと

下記のブログ記事は、文章として書き上がらないまま下書きのファイルに放り込んでいたのですが、1年経って全集が刊行開始(文藝春秋)されたことですし、これから丸谷才一を読む人の何か参考になるかもと思って、さらすことにします。メモのままで申し訳ありません。
なお、全集刊行開始を期に新しいツイッターまとめ「丸谷才一全集(文藝春秋、全12巻)刊行開始に際して考えたこと」)を作りましたので、そちらも合わせてどうぞ。随時更新中です。
ツイッターもこのブログに設置したいのですが、家人に頼まないとできないので、もうしばらくお待ちください。(2013.11.14記)

☆★☆★☆
先週土曜日、13日の早朝に作家の丸谷才一さんが亡くなった。享年87歳。

その知らせを聞いて、わたしが思ったことなどは、ツイッターで書いてあとでまとめた「作家・丸谷才一氏逝去報を受けて(平成24年=2012年10月13日)」ので、そちらを見ていただきたいのですが、ブログでは、文章としてまとめて書いてみようと思います。
(ツイッターのまとめは、ご自分がやってなくても読めます)

小説を書くための勉強をしようと思って英文科に進んだこと。
仕掛けのある小説
文明から見た文学評論
ジェイムス・ジョイスなどの翻訳を通じて、小説の書き方を学んだ。
若いころに取り寄せて読んだ英国の書評に感心して、日本での書評文化に貢献したこと(主に週刊朝日と毎日新聞)
ジャーナリズムについての合評会を雑誌「東京人」に連載したこと。
新古今和歌集から日本の古典を読み始めたこと。
万葉集よりも、古今和歌集から続く勅撰和歌集を、編集という面からも、日本の詩歌の最高峰としても再評価したこと。
『新々百人一首』(新潮社)に勅撰和歌集からの粋を集め、歌の読みについて文章の芸を尽くして書いたこと。
連歌への興味。最後は詩人(大岡信=まこと)、歌人(岡野弘彦)、小説家(丸谷才一)という3人で編んでいた。
エッセイの名手
挨拶についての本を、自身のスピーチ集という形で3冊の本にまとめたこと。

わたしが中学高校だった30年くらい前は、小林秀雄が「日本に批評を切り開いた第一人者」としての声望が高かった。父の本棚に『考へるヒント』という本があったので読んでみたけれど、自分の頭で考えるためのヒントにはなりにくかった。小林秀雄の批評は、何かをダシにして自分の言いたいことを書き付ける、という感じのもので、よく試験問題にも出た気がするけれど、元の文章がよくない上に、小林秀雄かぶれ(?)みたいな元文学青年・少女が問題を作ると、何が書いてあるのか、更にわかりにくくなるのであった。

丸谷才一などは、そのあとに出てきた世代なので、きっとああいう風通しの悪い文章への反発があったのだろう。
いろんなことを手掛けたけれど、その底には「風通しの良い言葉の使い方」を、読者への敬意を持って心掛けていたような気がする。
(2012.10月記す)
☆★☆★☆

2013/10/31 木曜日

神保町古本まつりで買った本と口腹の楽しみ

ご無沙汰しております。
1年振りのブログ更新です。
丸谷才一さんが昨年10月に亡くなった時に文章を書いたのが下書きのまま保存してありました。

本日神保町古本まつりに行ってきましたので、買った本と飲み食いしたものについて。
お茶の水方面から神保町の交差点に向かって歩くのが、わたしのいつものコースです。

文庫川村。
  塩野七生『わが友マキアヴェッリ』(中公文庫、1992)
   同じ著者の『ローマ人の物語』は通して読んだはずですが、手元の文庫本はまだそろってない。
  石川淳『文學大概』(中公文庫、1976)
   文章について書かれているので購入。たぶん一度図書館で借りている。

三茶書房と、三省堂古書館(いろんな古本屋が自分のところの棚を持っています)はじっくり眺めましたが購入はなし。
でもこんな本があるんだ、というのもいいのです。

三省堂書店地下の放心亭がいつも気になっていたのだが、遂に入る。
ドイツ料理の店、ジャーマンセルフサンドは黒い食パンにタルタルソースが挟んである。ピクルス・スライス玉葱などの付け合わせ。うまい。あとランチビール(相変わらず量は呑めませんが、グラスならビールも可)。

八木書店。
 川村湊『狼疾正伝 中島敦の文学と生涯』(ろうしつしょうでん、河出書房新社、2009)
  中島敦生誕100年だった2009年は関連本がいくつか出たのですが、その一つ。
  前に図書館で借りたけど、もう一度読みたくて。ほんとうは全集もほしい。
 八木書店は一階が近現代、二階が古典の日本文学の専門古書店で、古典関係は出版もしています。
 かつて国文科の古典専攻だったので、神保町に行く時は必ず寄る。

このあとの記憶はいまいち。
村山書店は講談社学術文庫がそろっているのでチェックすることにしていますが、小西甚一の『中世の文藝』はなかった。同文庫の大岡信『詩歌ことはじめ』を購入。

小宮山書店。
 柳沼重剛『語学者の散歩道』(岩波現代文庫、2008)
  著者は西洋古典学者。
  学者が書いた一般向けのエッセイが好きで、ぱらぱらっと読んで文章が好きな感じだったら読みます。

 河野純一『ハプスブルク三都物語』(中公新書、2009)
  ハプスブルクとモーツァルトに関係のある本はけっこう読んでます。
  建築物いろいろとモーツァルト・シュトラウスなどについて書いてあってカラー口絵付き、楽しめそう。

 内田樹『街場のメディア論』(光文社新書、2010)
  内田さんの書くものはブログ・ツイッター、本もいろいろ読んでますが、たくさんあるのでなかなか追いつけない。
  わたしは中学生のころからおぢさん的思考が強いと思うのですが、メインの流れは司馬遼太郎→丸谷才一→内田樹です。
  最寄りの駅に着くまでに読み終わった。

あともう一冊、中野好夫『伝記文学の面白さ』(岩波書店同時代ライブラリー、1995)はどこで買ったのかな?
中野さんの『蘆花徳富健次郎』(筑摩書房、1972-74)はだいぶ前にこの古本市でまとめ買いしましたが、そのまま積読だ。

小宮山書店のあたりでくたびれてしまい、近くの伯剌西爾(ぶらじる)という珈琲店に入りました。お店特製コーヒーゼリーが量がたっぷりで美味♪

北沢ビル1階の児童書専門BOOKHOUSE。
 「ぐりとぐらカレンダー2014」(福音館書店)
  子どもの時から大好きな絵本の一つ。いろんなグッズがありますね。
 安野光雅『旅の絵本Ⅷ』(福音館書店、2013)
  待望の日本編。英国好きなのでⅢは手元にあります。

一誠堂書店で
小西甚一の『日本文藝史』(講談社、別巻は笠間書院)はありますか?」
と訊いたら、八木書店、日本書房、西秋書店という日本文学専門のところか、案内所で検索をしてみるように勧められる。大部だし相当な良いお値段だと思っていつも気になりながら店頭にあるかないかを気にしているのですが、検索を掛けたら全部そろいで48,000円(西秋)、68000円(日本)と到底いまのわたしでは手の出せない金額だったので、メモだけしてのぞきにも行きませんでした……(泣)。

最後に東京堂書店に寄り、『丸谷才一全集』(文藝春秋、全十二巻)の第一回配本第五巻<小説「女ざかり」ほか>を確認しました。丸谷さんの本、刊行されたものはほとんど読んでいるはずですが、『日本文藝史』の前にこちらが優先ですね。その分節約しないと……!
先日、全集刊行記念講演が神奈川近代文学館であったのですが、台風来襲の日だったし他の用事を優先してあきらめたのでした。どこかでまとめて講演の内容が読めるといいな。

2012/8/17 金曜日

岩波少年文庫の50冊(選・宮崎駿)@世田谷文学館

昨日、世田谷文学館で表記の展覧会を観てきた。

子どものころ、岩波と福音館の子ども向けの本で育ったので、宮崎駿がどんな本を選ぶのか、興味津々だった。
創刊から60周年を迎えた岩波少年文庫の刊行部数は、現在までに400冊を超えているそうな。

その400冊余りの岩波少年文庫を実際に手にとって、3ヵ月かけて50冊を選んだという。
1冊1冊に、直筆で推薦文を万年筆で子ども向けに書いている。便箋は「崖の上のポニョ」のタイトルが下に書いてあったりして楽しい。字数は200字前後。

小学校1年で「アフリカ行き」をもらって以来、お話としては今までいちばん、わたしが愛読してきたドリトル先生についてはこんなふうに。(採り上げたのは航海記)

【 不思議な力を持っている本です。ムシャクシャして、イライラしている時、くたびれて、すっかりいやになっている時、この本を読むと、ホワーンとあたたかい雲の中に入ったように心も身も軽くなります。なんだかうまくやれそうな気がしてくるのです。
 それに、とても読みやすいし、本はしっかり厚くてたっぷりしていて、しかも全部で13冊もある上、1冊づつバラバラに読んでもいいんです。
 ね、いい本でしょう。】

受付でもらったミニ本の中から。

――……僕らの学生時代には、一定の本は読んでおかなくては話にならないというラインがありました。それで二葉亭四迷やドストエフスキーなどの本も読みましたけど、ある時、もう読み進められなくなって…。自分が解剖されているような気がして。似たような経験が何度かあって、僕は大人の小説には向いてない人間だと決めたんです。児童書の方がずっと気色に合うんです。何が違うかといったら、児童書はやり直しがきくという話ですよ。……――

『星の王子さま』を訳した内藤濯(ないとう・あろう)の、私家版歌集『折々ぐさ』(1978=昭和53年9月刊行)から一首。
<いづこかにかすむ宵なりほのぼのと星の王子のかげとかたちと>

2011/5/15 日曜日

人前で話すということ―「英国王のスピーチ」を観て

Filed under: ラジオ,読書,映画,日記,散文・文章 — ぱぐ @ 22:32:41

昨日、府中で映画「英国王のスピーチ」を観てきた。

昨年度に引き続き学校で仕事している。補助だからわたしがメインで話すことは少ないが、それでも急に自己紹介お願いしますね、と言われて何回かその場で話した。

昨年度は初日は職場にひとりで行ってくださいね、と言われた。どきどきしながら出向くと、いきなり全校の子どもたちの前で挨拶してくださいね、と言われた。何も準備していなかったわたしは台の上に立った時に上手く言葉が出てこなくて、名前を名乗り、よろしくお願いします、くらいのことしか言えなかった。初日からこれでだいじょうぶだろうか、とかなり落ち込んだのを覚えている。

書くことはぜんぜん苦にならないのだが、おおぜいの人の前で挨拶するのはニガテとしている。推敲できませんからね。丸谷才一は人前でスピーチした記録集を3冊出しているが、必ず原稿を書き、誰かに聴いてもらって手を入れ本番に臨むという。丸暗記ではなく、巻紙式の原稿を読み上げるらしい。

この映画では、内気でどもる癖のある男が家庭の事情から思わぬ王位につくことになり、国民に語りかけるための準備をする。

意識すればするほど、言葉というのはスムーズに出てこないものだ。震え声が自分の耳に届いてしまうし、聴いている人の表情も目に入ってくる。授業もそうだけれど相手を無視して一方的にしゃべっても意味はないので、相手の反応を見ながらうまく乗せていくのが名人技である。

男の話し方の訓練相手になったのは植民地出身の年配の男だった。幼いころの体験が話す妨げになっていると考える訓練相手は、訓練する場では対等の立場を要求し、息の出し方、早口言葉の練習などのほかに、男の心を開き、つらかった経験を話すところまでこぎ着ける。

そして最後、長く大事な話を国民に向けて生放送で10分近く話すことになる。原稿はチェック済みなので、あとはそれを生放送に乗せるだけだ。訓練相手は狭い部屋の中で男と2人きりになり、窓を開け、「わたしに向かって話すんだ」という。最初は目の前で声のトーンや息継ぎを指揮者のように指示していたが、男はだんだん自分で話せるようになっていく。それをラジオの前で聴き入っている国民の表情。

終わって男は礼を言い、訓練相手は初めて彼を陛下、と呼ぶ。
王妃の安心した表情が印象的だった。

« 前ページへ次ページへ »

HTML convert time: 0.492 sec. Powered by WordPress ME