2014/1/29 水曜日

2014.1.11「神谷美恵子生誕100年 記念の集い」@岡山市民会館(12)

日野原氏の講演、鼎談のあと15分の休憩を挟んだ。
ロビーに長島愛生園の展示パネル、資料があったので見学する。
今回は遠方から来る人のために次の日(ちょうど神谷さんの100回目の誕生日!)に長島愛生園見学バスツアーを設けてくれたので、担当の人に挨拶した。記念の集いは一人で行ったので、この日まで単独行動であった。

15:55~16:40 コンサート「バロック音楽のひととき」
演奏:テレマン・アンサンブル 指揮:延原武春 独奏:神谷徹/リコーダー 出口かよ子/フルート・リコーダー 浅井咲乃/ヴァイオリン

神谷徹氏は学生の時からリコーダーを始めてバロック音楽を中心に音楽活動を行っている。また市販のストローによる自身制作の笛でのコンサートも開いている。
わたしは一度テレビでストロー笛演奏を観たことがある。前にFMでリコーダー演奏を放送していたのを録音したのが残っていると思います。
神谷美恵子さんはピアノが弾けて、いちばん好きだったのはJSバッハ(いわゆる大バッハですね、息子たちも作曲家なので)だった。

<曲目>
ゲオルグ・フィリップ・テレマン「リコーダーとフルートのための協奏曲 ホ短調」
リコーダー:神谷徹、フルート:出口かよ子

ヨハン・セバスチャン・バッハ「アリア ニ長調」(ぱぐ注:「G線上のアリア」という有名な曲がありますが、その原曲)

同上「ブランデルブルグ協奏曲」第4番ト長調
リコーダー:神谷徹、出口かよ子 ヴァイオリン:浅井咲乃

指揮の延原氏によると、
「大バッハの次男、カール・エマヌエル・バッハは今年生誕300年です」
とのこと。テレマン・アンサンブルはドイツなどでテレマンをいろいろ演奏する予定だそうです。

アンコールは、神谷美恵子さんのお葬式に本人の希望で掛けられたバッハの「主よ、人の望みの喜びよ」でした。
わたしは幼少期から20歳くらいまで親の趣味でピアノを習わせられたのですが、途中で親の押しつけに嫌気が差してさんざん揉めたものの、この「主よ、人の望みの喜びよ」は先生にお願いしてレッスンをしてもらった曲です。きちんと弾くとむずかしい。

わたしはバッハにはあまり詳しくないのですが(好きなのはモーツァルト)、「「主よ、人の望みの喜びよ」は「心と口と行いと生活で」という全10曲からなる教会カンタータの中に出てくるコラールだそうです。

どんな曲か知らない方は、動画サイトにネビル・マリナー指揮、アカデミー室内管弦楽団(英国)の演奏がありましたのでどうぞ。ややテンポが速めです。

以上で記念の集いのレポートは終わりです。予想通りの長文になりました。読んでくださった方ありがとうございます。
次は、記事の題名を変えて長島愛生園見学記を書きます。

2014/1/27 月曜日

2014.1.11「神谷美恵子生誕100年 記念の集い」@岡山市民会館(11)

Filed under: 神谷美恵子,読書,日記,旅行,散文・文章 — ぱぐ @ 19:06:55

鼎談の続き2。

樋野:書くと人間が丁寧になりますね。
本を読みながら線を引くというのもいいかもしれません。昔読んだ神谷さんの本を読み返すと、前に線を引いたところはまた引きたくなります。
25歳までに考えることの基礎ができます。
いま、神谷美恵子の考え方を改めて学ぶ時だと思います。
どんな病気でもこころの悩みは同じです。
がんの末期の人でも笑顔の人がいるのは、教育の成果だと思う。
何かあった時に「このときのための人生だったかもしれない」と思うこと。
神谷さんは温かい情と高い知性の持ち主だった。
石田さん、神谷さん、最後に一言ずつどうぞ。

石田:一日一日を大切に生きることだと思います。

神谷徹:この会のことを知ったら、きっと母は「やあね」と言って逃げ出すと思います(ぱぐ注:神谷さんにははっきりものを言うところところと内気なところが同居していた)。
母は人のために役に立っているという意識はあまりなかったんじゃないかと思います。
わたしはこれからもあがいて生きていきます。

樋野:ではまとめです。愛生園の皆さん、神谷美恵子読書会のことはよろしいでしょうか?(再び聴衆より拍手)
今日はありがとうございました。

2014.1.11「神谷美恵子生誕100年 記念の集い」@岡山市民会館(10)

Filed under: ,神谷美恵子,音楽,読書,日記,旅行,散文・文章 — ぱぐ @ 19:06:40

鼎談の続き。

石田:愛生園の人たちにとっての「優しさ」ということを考えます。『生きがいについて』について後に書かれたことを直接言ってもらったのは貴重なことだと思っています。
神谷先生は入所者に「母」を思わせるところがありました。
青い鳥楽団という園内で結成された音楽活動グループで使うハーモニカを探したり、文芸活動や宗教活動を見守っていました。

樋野:わたしが関わっている小児がんの施設には犬が二匹いるのですが、病院ではおとなしいのですが、自宅に戻るとやんちゃだそうです。

神谷徹:愛生園に行って何をしているのか、説明されたことはなかったです。がんにかかっていたことも知らなかった(ぱぐ注:子宮がんになったのは41歳。長男律氏・次男徹氏ともまだ小学校低学年だった)。
のど自慢用の鐘を愛生園に贈るためにカタログを見ていたのは覚えています。
愛生園で音楽活動をする時、指揮をする人はゴム管を使うのですが、その話はしてくれました。
「使命感」、愛生園に行くのが自分の使命だということはよく言っていました。
息子が家でゴロゴロしていると歯がゆかったかもしれません。それは神谷美恵子を鍛えることの一つになったかもしれない(聴衆より笑い声)。

樋野:思想として練られたもの、使命感ということですね。神谷さんは正論より配慮を優先した。相手が間違っていてもまずは受け入れた。
(聴衆に向かって)これから毎日神谷美恵子の本を少しずつ読むといいかもしれません。
今の学生は自分の読みたいものを読み通そうとしない、すぐ人の意見に左右されてしまう。
長島愛生園で年に一回、神谷美恵子の読書感想発表会をしたらどうですか?若い人を対象にして。岡山だと山陽新聞かな、今日も来ていると思うのですが、後援してもらって(聴衆より拍手)。

石田:いいですね、是非やりたいです。

神谷徹:母は書くことが好きでした。頼まれなくても書いていた。息子にも書け書けと言いました。
手紙はすぐ出すし、論文の提出も早かったです。論文は早すぎるとあとでそれを参考にして他の人が論文を書いたりするので、タイミングが悪くなって怒っていることもありました。
せっかちで、電話が鳴ると走っていました。
タイプライターの音やインク消しのにおいを覚えている(ぱぐ注:最晩年、完成できなかった英国の作家ヴァージニア・ウルフに関する英文論文のことではないかと思われる)。

2014.1.11「神谷美恵子生誕100年 記念の集い」@岡山市民文化会館(9)

日野原氏の講演のあと、帰る人が目立ったと書きました。
この集いの全貌と次の日の長島愛生園見学記を含めて書くのが今回のブログ記事の目標なので、長くなると思いますが、引き続きおつきあいください。

15:00~15:40 鼎談(ていだん)「神谷美恵子を語る~医師として、母として~」
順天堂大学教授 樋野興夫(ひの・おきお)、長島愛生園入所者 石田雅男、神谷美恵子次男・リコーダー奏者 神谷徹

樋野氏が進行役。専門は病理・腫瘍学。2008年順天堂大学に「がん哲学外来」を設立し、がん患者や家族を精神面で支える運動を展開しているとのこと。長島愛生園で2012年から「神谷美恵子記念がん哲学外来カフェin長島愛生園」を開催。毎月最終火曜日に園外の人も参加して、入所者と自由な会話をしてもらっている。

以下、敬称略でメモできた部分を再現します。文責はわたしにあります。間違っていたら申し訳ありません。

樋野:何も打ち合わせをしないまま出てきました。
日野原先生は立ったまま一時間お話しされましたが、我々は座ったままで失礼します(ぱぐ注:前に低いテーブル。左から樋野氏、神谷徹氏、石田氏の順にソファに座っての鼎談)。
わたしは医学部を卒業した年に神谷さんが亡くなっている(ぱぐ注:1979=昭和54年)ので、何も知りませんでした。
新渡戸稲造(ぱぐ注:にとべいなぞう、1862-1933。教育者、農学者。明治以降、日本のクリスチャンで活躍した人物の一人)の本を愛読していたのですが、新渡戸は神谷さんの両親の仲人です。そして神谷さんの父親が前田多門というのは歴史的なすごいことだと思います。
神谷さんは43歳から長島愛生園へ行き始めた。41歳の時、がんを発病しているのですが、それは子宮がんでした。
石田さん、神谷さんとの関わりについてどうぞ。

石田:21から22歳の時のわたしのつまずきについてお話しします。
ちょうど神谷先生が長島愛生園に来られたころのことでした(ぱぐ注:1957=昭和32年から神谷さんは長島愛生園の非常勤職員となった)。
わたしは21歳の時、プロミン(ぱぐ注:ハンセン病の特効薬)以外の薬を飲むようになって副作用が出て手足が不自由になり、重度障がい者となりました。愛生園には自殺の名所となっていた崖があります。そこに行っても、大量の薬を飲んでも死ぬことができなかった。
その時神谷先生に逢ってみようと思いました。
神谷先生はわたしの話を聞いてから、
「健康を失ったことは辛いでしょうね。死ねなかったということは自殺を思いとどまらせた強い力があなたを支えてくれるのではありませんか」
と言われました。
病む人にとっての精神医療が必要だと感じています。

樋野:医師として大切なことは、最高の技術で治すこと、それと人間として手を差しのべるということですね。「病気であっても病人にならない人」を作ること。
では神谷さん、息子さんの立場から母を語ってください。

神谷徹:あとになってから自分の母親の詳しいことを知ったのです。
小学校一年の時の担任の先生が「前田美恵子」さんだったので、(旧姓なら)同じ名前だと面白がっていました。
20代後半になってから母のやってきたことを知りました(ぱぐ注:神谷美恵子さんが1979年65歳で亡くなった時、次男の徹氏は30歳になる直前。1973年に結婚している。徹氏の妻永子さんは晩年の美恵子さんの良き話し相手だった)。
あんまり冗談は通じない人でしたね。喜怒哀楽は激しかった、父は反対に穏やかでした。料理はスイスで覚えたものとか、シャーベットを作ったりとか編み物をやっていたのも覚えています。
夫を立てていて、立派な人だと子どもに言っていました。それで母がすごい人だとはあんまり思ってなかったです(聴衆から笑い声が起きる)。
ドリトル先生を読んでくれたのですが、本人が好きで夢中になって読んでいました。
美しいもの楽しいことにはよく反応していました。

樋野:家庭において普通の人だったのは大切なことかもしれません。
新渡戸稲造は10歳くらいの神谷さんの頬をつねったというのですが、神谷さんはそれをずっと覚えていたことの一つとして書いています。
石田さん、何か付け加えることがありましたらどうぞ。

2014/1/22 水曜日

2014.1.11「神谷美恵子生誕100年 記念の集い」@岡山市民文化会館(8)

日野原重明氏の講演の続き。
その3.「生き方の選択」

*<ただ生きるだけでなく、よりよく生きることを何より大切にしなくてはいけない>(ソクラテス)

*日野原重明よく生きるための提言
1.生き方を変える。 
 動物は走り方を変えることはできない。鳥は飛び方を変えることはできない。人間は生き方を変えることができる。
2.出会いから学ぶ
3.老いを創める
 マルティン・ブーバー「年老いるということは、もし人が始めるということの真の意義を忘れていなければ素晴らしいことである」
(ぱぐ注:マルティン・ブーバーはオーストリア出身のユダヤ系宗教哲学者、社会学者。1878 – 1965)
4.自分の運命をデザインする
 アンリ・ベルグソンのことばに、「人間というものは自分の運命を自分で作っていけるものだということをなかなか悟れないものである」というのがある。(ぱぐ注:アンリ・ベルグソンはフランスの哲学者。1859-1941)

自分の夢はまだある。今度200くらいの俳句を集めた句集を出す。
来月(ぱぐ注:2014年2月)、三越で書道展を開催する。オークションでの売り上げは「新老人の会」に寄付する。

以上で日野原重明氏の講演は終わり。
日野原氏の話を聴きに来た人もたくさんいたようで、帰る人が目立った。

2014.1.11「神谷美恵子生誕100年 記念の集い」@岡山市民文化会館(7)

Filed under: 神谷美恵子,読書,日記,旅行,散文・文章 — ぱぐ @ 15:43:18

日野原重明氏の講演の続き。
さっきまでのが項目の1。

項目2は「神谷さんから得たこと」
*生きがいについて
 人間が最も生きがいを感じるのは自分がしたいと思うことと義務が一致した時
 (ぱぐ注:たぶん『生きがいについて』の中にこのことばが出てくると思うのですが、該当箇所を見つけていません。わかったら加筆します)

*無用者となること(『こころの旅』より)
 ぱぐ注:みすず書房神谷美恵子コレクション版『こころの旅』p.148→<社会的に無用者となった、という意識は否応なしに老化した自己の全体像をこころの中に浮きぼりにする>

*自分は2000年に「新老人の会」を立ち上げた。この会のモットーはピーター・フランケル(ぱぐ注:ハンガリー出身の数学者・大道芸人)の次の言葉である。
 1.愛し愛されること
 2.創めること
 3.耐えること

*死について 
 残りの日日について神谷さんが書いた詩のこと
 ぱぐ注:『神谷美恵子の世界』(みすず書房、2004)に「病床の詩」として「順めぐり」「ひとの心がわかるとき」「ごきげんうかがい」「同志」の4つが納められている。p.150-153

*望ましい人生の結末
 マルクス・アウレリウスの言葉「つかの間、自然の摂理に身を委ね、段々に旅の終わりを迎えるがよい、オリーブの実が熟して落ちる時、支え続けた枝を祝し、いのちを受けた幹に感謝をするように」
日野原さん宅にオリーブの木がある。オリーブオイルを絞って毎朝オレンジジュースに入れて飲んでいる。あと長生きにはブロッコリーがよい。

神谷さんの直筆原稿を持っている。雑誌「蛍雪時代」に寄せたもの。神谷さんが58歳の時に書いた。旺文社の編集者から贈られた。
ぱぐ注:「学生さまざま」1972年12月。『神谷美恵子著作集6』「存在の重み」エッセイ集2、みすず書房、1981)所収。
学生からいろんな相談を受けることについて。
結びのことば→「ただ進学するために進学するというのは禍(わざわい)のもとだから、自分はどこで何をしたいのか、ということをよく自問した上で進路を決めて欲しい。大学へ行くのならば、ただ有名校だからとか、一流校だからというだけで決めないで、その内容はどうか、果たして自分(この二文字に傍点)に適しているか、をよく考えてきめて欲しい。」

2014.1.11「神谷美恵子生誕100年 記念の集い」@岡山市民文化会館(6)

日野原氏の履歴の続き。

1970=昭和45年、よど号ハイジャック事件に遭う。もしかしたらあの時殺されていたかもしれない。
 (ぱぐ注:過激な左翼の赤軍派が飛行機を乗っ取って平壌に向かえ、と要求した。韓国の空港で山村運輸政務次官が身代わりとなり乗客を解放。その後飛行機は北朝鮮に向かった)
アメリカのエモリー大学に留学。ここはコカ・コーラの社長がお金を出して作ったところ(ぱぐ注:米国南部ジョージア州アトランタにある。1836年設立のメソジスト系私立大学。米国における疫学研究の拠点。コカコーラはアトランタに本社があるのでゆかりが深いのであろう)。
1973=昭和48年、日野原ライフプランニングセンターを設立。
1979=昭和54年、聖路加国際病院院長に就任(神谷美恵子はこの年10月に65歳で逝去)。
1995=平成7年、地下鉄サリン事件の時、築地駅でも被害者が多数出たので、640名の急患を聖路加国際病院で受け入れ。

日野原氏とハンセン病の関わり。

京都帝国大学在学中に、講師だった小笠原登医師からハンセン病のことを聞いた(ぱぐ注:小笠原登1888-1970は強制隔離・断種に反対した医師で、その考えのため、医師の学会から締め出された)。
YMCAの寮にいた時に、日本基督教青年会医科連盟(昭和14=1939年発足)に関わった。この連盟は満州での地域医療に携わったことがある。
1949=昭和24年、日本キリスト者医科連盟設立。ここは台湾でハンセン病の治療に携わった医師がいる。
1976=昭和51年、笹川記念保健協力財団でハンセン病に関する事業を始める。

2014.1.11「神谷美恵子生誕100年 記念の集い」@岡山市民文化会館(5)

最初に長島愛生園園長・藤田邦雄氏から挨拶があったのだが、わたしは開演時間を過ぎてから会場に着いたので、詳細はわからず。
神谷美恵子と長島愛生園の関わりについて話したものと思われる。

なお、今回の集いの主催者は長島愛生園と長濤会。
共催が長島愛生園入所者自治会、長島愛生園歴史館、笹川記念保健協力財団、岡山県、岡山市、瀬戸内市。
後援がふれあい福祉協会、岡山県教育委員会、岡山市教育委員会、瀬戸内市教育委員会、岡山県医師会、岡山県看護協会、ハンセンボランティア「ゆいの会」。
協力が山陽女子高等学校(たぶん司会を務めた女性二人。放送部ではないかと思う)。

14:00~15:00 講演「人生の生き方の選択」
聖路加国際メディカルセンター理事長・笹川記念保険協力財団名誉会長 日野原重明

昨年10月4日に102歳になったとのこと。神谷美恵子が生誕100年(亡くなったのは65歳)なので、さらに年上で健在と言うことになる(!)。
杖も突かずにすたすた出てきて一時間立ったまま、パワーポイントを使って講演をしたので聴衆が度肝を抜かれていました(笑)。
パワーポイントの操作は誰かにやってもらったし、背中が曲がっているのは年齢的にやむを得ないでしょうが、これが(噂の日野原先生か!)と思いました。

実は日野原さんは昨年6月東京都東村山市にあるハンセン病療養所全生園内の国立ハンセン病資料館でも講演しています。ハンセン病資料館開館20周年記念です。わたしはそれをやったのをつい最近知って愕然としたのですが、その時のお題は「ハンセン病の患者に生涯を捧げた神谷美恵子医師の生き方」です。今回の講演はそれに重なる部分が多いのではないかと思います。

日野原さんが現在名誉会長を務める笹川記念保険協力財団はハンセン病の撲滅と病気について一般市民に広く理解してもらう取り組みをしています。
同時代の同じ医師であるけれども、神谷美恵子に直接逢ったことは一度もない。
ただ、神谷美恵子が訳した本の影響は受けた。

GHQが聖路加病院を接収した時、米軍の野戦病院として使われたが、聖路加の人は中に入ることを許されなかった。メディカルライブラリーのパスが欲しいと申し出たら、午後だけ通ってもいいということになった。ウィリアム・オスラー(ぱぐ注:1849年- 1919年、カナダの臨床医師、内科医)の本の中に「医師が読むべき10冊の本」、というのがあり、その中にマルクス・アウレリウス『自省録』があった。(ぱぐ注:マルクス・アウレリウスはローマ帝国の皇帝。五賢帝の一人。若いころ哲学を学んだので哲人皇帝といわれる。『自省録』は多忙な公的生活の中で自分を振り返って書き残したもの)
読みたいと思っていた時に、神谷さんが翻訳を出したので、さっそく読み大きな影響を受けた(ぱぐ注:今は岩波文庫に神谷美恵子訳が入っています)。

同時代人なので、自分と神谷美恵子の履歴を振り返る(パワーポイントで両者の経歴事績を表にして示す)。
日野原氏は山口県山口市出身の長州人。七歳で神戸の小学校に入学→腎臓病で休学→関西学院中学校入学→京都の第三高等学校、通称三高入学(ぱぐ注:岡山には第六高等学校、通称六高があった。漱石の弟子の一人で作家の内田百閒は岡山市出身で六高を出ている。大学時代はドイツ語ドイツ文学専攻)→京都帝国大学医学部に学ぶ。在学中に結核にかかって広島で療養(ぱぐ注:お父さんが広島女学院の院長だった。両親共にクリスチャン。お父さんはメソジスト派の牧師。日野原氏もクリスチャン)。

影響を受けたウィリアム・オスラーの本は、後に仁木久恵さんさんと共に翻訳をした→『平静の心―オスラー博士講演集』(医学書院)。

2014.1.11「神谷美恵子生誕100年 記念の集い」@岡山市民会館(4)

集いの概要について(敬称略)。

13:20 会場、14:00開演 場所は岡山県岡山市の岡山市民会館大ホール。
一般で応募当選したのが1500名(同行者二名まで)、他に招待者もあった。1600名くらい集まったらしい。

14:00~15:00 講演「人生の生き方の選択」
聖路加国際メディカルセンター理事長・笹川記念保険協力財団名誉会長 日野原重明
(ぱぐ注:日野原氏は内科医。循環器、つまり心臓・血管などが専門)

15:00~15:40 鼎談(ぱぐ注:ていだん。三人で話をすること)「神谷美恵子を語る~医師として、母として~」
順天堂大学教授 樋野興夫(ひの・おきお)、長島愛生園入所者 石田雅男、神谷美恵子次男・リコーダー奏者 神谷徹

15分の休憩を挟んで
15:55~16:40 コンサート「バロック音楽のひととき」
演奏:テレマン・アンサンブル 指揮:延原武春 独奏:神谷徹/リコーダー 出口かよ子/フルート・リコーダー 浅井咲乃/ヴァイオリン

2014/1/15 水曜日

2014.1.11「神谷美恵子生誕100年 記念の集い」@岡山市民会館(3)

Filed under: 神谷美恵子,読書,日記,旅行,散文・文章 — ぱぐ @ 21:40:02

すみません、なんと3回目の前置きです。

アメリカ留学中もいろいろ迷いがあって時間が掛かっていますが、医学に転校することを決め(父前田多門の許可を得るまで時間が掛かった)、アメリカで少し医学を学んだあと、太平洋戦争前に帰国し、東京女子医学専門学校(現在の東京女子医科大学)に編入、日本の医師の資格を得ます。

ハンセン病のために働きたい、という希望があり在学中の昭和18=1943年に岡山県にある長島愛生園というハンセン病療養所に見学に行っています。
ただ家族の反対などもあり、専攻を精神医学にすることに決め、東京帝国大学医学部の精神医学教室に入りました。当時は戦争末期で男性医師は出征している者が多く、医師の数が足りず空襲もあったりしてたいへんだったそうです。

戦後は父前田多門が文部科学大臣に任命されたので、当時の駐留軍GHQ(アメリカ軍)との交渉のために語学の手伝いをしています。六三三制などがこのときできています。前田多門辞任後も次の大臣、安倍能成(哲学者、夏目漱石の弟子の一人)に請われて引き続き文部科学省勤務。

そのあと生物学者の神谷宣郎(かみや・のぶろう、1913-1999)と結婚、当時宣郎氏は東京大学の講師でしたが後に大阪大学理学部の教授になったので、美恵子も一緒に関西住まいとなる。

まだ紆余曲折がありますが、長島愛生園に勤務することができるようになったのは昭和32=1957年、43歳の時です。まず非常勤職員として週末を中心に神戸市の自宅から5時間余り電車と船を乗り継いでの勤務でした。
精神科の医師として治療を行いながら面接やアンケートで調査を実施。このとき、まだハンセン病療養所では国の政策として「絶対隔離」が行われていたので、家族や郷里と切り離されてここに入った人が多い。年少のころの入所だと、その当時はよくわからなくてあとでなってから事情を知るという人もいたはずです。

美恵子自身も若いころに自分が将来どうしたらいいのか、という悩みを抱えていたこともあって「生きることの意味、生きがい」を探していたところがあったのですが、患者さんたちの話を聞いているうちに「生きがい」についてさらに深く考えるようになりました。これは後に『生きがいについて』(みすず書房、1966)という著書にまとめられます。
美恵子は西洋哲学の影響をかなり受けたので、そちらの考え方が強くなかなか手強い本ですが、興味のある方はどうぞ。

さてそろそろ「記念の集い」のレポートに入ります。おいおい注釈を挟みますので、神谷美恵子の経歴よりも考え方、何をしようとしていたか、ということにご注目ください。

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